【*2015/06】


by kfushiya
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
c0206731_9262573.jpg

↑収録曲は1.Smaragd 2.Kahki 3.Reed 4.Pigment 5.Cadmium 6.Signal 7.Ur 8.Loden
の8曲。2009年4月、ケルンのLoft録音。エンジニアはChristian Heck。


夜中に多国語を一気に連続して翻訳してからクラシックの原稿を書き、そのまま昼間は鬱屈した気分のまま長時間お勤めするという日々を送っていたのでさすがにこの一週間は体力的にきついものがあった。もう若くはないのだから。この昼どうにかしないとなあ。頭に一筋の煙をくゆらすように、このところシャンソンのアルバムばかりを聴いている。ゲンズブールやバルバラ、グレコなど。たまに挟み込むのはとあるミュージシャンに以前いただいたアーチー・シェップの"For Losers"。最高ですね、この作品。ここは日本なのだからとあんまり感情を出すのはやめよう、とはわかっていても数か月に一度擦り切れるときがあり。新たな出会いを持ったとて最終的には鼻つまみ者で終わることが多いのだから、環境を変えても同じことだな、とか同じ結果へ向けて一から布石を打ちなおすのもめんどくさいよなあ、とか苦笑しつつ時間ばかりが猛烈な勢いで過ぎてゆく。自分のキャラは今更治りようがないのだからこれでゆくしかないのだ、と妙に明るい確信へと結局は至るのだが。

さておいて、やっと届いたAchim Kaufmann(アキム・カウフマン)のトリオ作品。アキム・カウフマンといえば『Double Exposure』、というくらいこLeoから出ているクァルテット・アルバムは大好きな一枚だ。あまりにも好みのピアノなので、初めて聴いたときも以前どこかで接したことがあるかのような既聴感を覚えたほどだ。アキム・カウフマンはケルン~アムステルダム・シーンで活躍しており、ずっとアムスに住んでいるものと思っていたが、数年前よりベルリンへ居を移したらしい。ということは、『Double Exposure』のメンツのうち、Michael Mooreを除いた全員がベルリンに住んでいるということになる。楽しそうだなあ。そういう訳で、この『Gruenen』のトリオ編成も、Christian Lillinger というベルリンシーンの若手で抜きん出た才能を見せる第一級のドラマーを得て非常にヴィヴィッドかつ腰の据わった仕上がりとなっている。Lillingerが1984年生まれ、ダブルベースのRobert Landfermannは1982年生まれというから如何にも若いメンバーである。演奏は歳を感じさせない老練なものではあるが、アルバムが進むにつれて兄貴分的にKaufmannが若手2人の影に回って存分に2人を暴れさせている様子も頼もしいものがある。

アキム・カウフマンのピアノの魅力は、何と言ってもその音色である。リリカルで気品に溢れているが、近寄り難いのではなく、すっとこちらに馴染んでくる外壁のなさ。アルバムタイトルは『グリーン』だし、ジャケもどことなくファンシーだが、中身はそんな安易な予想に添うものではない。見事に鳴らし切られる88鍵。使い切られるそのソノリティ。インプロヴィぜーションでもはや常套手段となったプリペアド奏法は最小限度に抑えられ、あくまでサウンドの一部として自然に融和するように収まる。ピアノ線が鍵盤より前にしゃしゃり出ることはなく、88鍵のサウンドを豊穣に肉付けし、その魅力をヴァイヴする。ピアノの魅力が細部まで立体的に積み重なった緩急/弱強も自在な計8曲収録。単音がシフトするしたたるような連打から始まる1.Samaragd。ピアノはコードとアルペジオとなって波及力を増してゆくが、Lillingerのドラムもそれに呼応するようにドラムセットの各部を小刻みに震動させながらサウンドの太い幹を打ち立ててゆく。シンバルからハイハット、スネアと高音から下降してゆき、バスドラに至ったや否や、その音が乾き切っているので肩すかしを食う。地鳴りとして落ちるべきところが逆にドライに突き上げてくるので、それが逆に衝撃だ。水鉄砲を顔に食らった気分に近い。中盤に差し掛かってピアノと組んでじりじりとした焦燥を醸し出す、その音質はほとんど木魚。スティック、手による寸止め、ブラシ、鈴等、さまざまな触手が弾丸となって降り注ぐ。まあ、終始ほとんど鳴りっぱなし(Gunter Baby Sommerの愛弟子だけあって、即興における毒の盛り方の何たるやを心得ているが)。新鮮味とともに違和感を覚えたのが、ダブルベースの在り方だ。ラントフェルマンの弦はじきは音楽全体に大きな粘着質と弾みをもたらしていることは間違いないのだが、ドラムとピアノが強音で全開となっているときに絡んでくると、時たま煩わしく感じるのである。音が多すぎる。というか、そもそも「トリオ編成」というものはかくあるものだったのだろうが、昨今「ベースレス・スタイル」に聴き手の耳が慣らされてしまった影響なのだろうか。あまりに充実している、こいつほんとに20代かよ・・・とか思いつつ2曲目へ移行してハタと気付くのが、ピアノは打楽器であることに徹しているのだな、ということ。カウフマンのサウンドの波及は完全に縦方向だ。ツインドラム編成に近いノリなのかもしれない。ドラムとピアノのポキポキとした断続音に、唯一横のラインで滑りこんでくるのがベースで、その弧を描くかのような重音含みの侵入はなかなかにエキセントリック。サウンド全体の最低音を担う苦渋に満ちた迫力のベースライン、それにバスドラ、全鍵を駆使するピアノのトレモロが加わる攻め上げはさすが男3人のスタミナ。どんなに爆音になっても決して野卑にならぬところも素晴らしい。個人的には5. Cadmiumと6.Signalで色濃く見せた、コードの音の曳きが鋭角性を保持したまま折り重なってゆくピアノがとても好きだが、どの楽器に注目して聴くかで全く違った世界が開けてくるだろう。どこを切り取っても高密度という、瞬間にこだわり出したらエンドレスに聴き続けることになりかねないアルバム。Kaufmannのコンポーザーとしての明晰な頭脳、成熟したピアニズム、楽器を隅々まで熟知しヴィヴィッドな音色で歌わせる統率力。ジャンルによらずピアノ好きを満足させるに違いない。

現在Achim KaufmannはJuergen Friedrich(ユルゲン・フリードリヒ)率いる"Monosuite"のメンバーとしてツアー中のようだが、メンツがHayden Chisholm、John Herbert、John Hollenbeckにストリング・オーケストラ付きというからすごい。聴いてみたいものだ。
[PR]
# by kfushiya | 2011-06-18 16:41 | ベルリン/音楽 | Comments(0)
c0206731_20281979.jpg

↑Julia Huelsmann Trio 『Imprint』(ECM)。国内盤は3/29発売とか


今日も朝から池袋へ行っていたが、先週に比べたら大分人通りも多くてにぎわいを見せていたように思う。しかしまあ、様々な国籍の外国人の方とお話しして、そのキャラの濃さ(というか日本以外ではこれがごくフツーなのだけれど)にこちらも接していて飽きなかった。連日の放射能騒ぎで外国人は皆祖国へ引き返しているらしいが、それでも残っている方々は逞しかったなあ。俳優だというコスタリカ人のおっさんはひっきりなしに喋って"pura vida"を繰り返していたし(いつもポジティヴにピュアに!どうせなら人生は楽しく!ということらしい)、大使館ごと関西へ移転し「都内3000人もいたドイツ人はもう1000人しか残ってない、これで俺の仕事が増える、ラッキ!」と語っていたドイツ人、「みんな逃げ帰ったけど、被災地ならともかく東京にいてまですぐに逃げるような奴はどこ行ってもダメだ。運命だと思えばいいのに」と冷静な中国人夫妻等、なんだか外部の喧噪が別世界のように思えるような瞬間も。帰りは数件の個人商店を通りかかり、野菜も米も卵もフツーに売られている様子を見て、なんでスーパーとコンビニだけであんな嵐のような状況に陥っているのやらと思ってしまった。今後はスーパーなんか止めて個人商店で上手に必要な分だけ買い物するべ、と身に染みる。今日一緒だったマレー語とインドネシア語の通訳の女性(この日は英語で参加)も「いやー、リュックしょって両手にトイレットペーパー握りしめたオバハンに、スーパーで『おい、そこどけ!』とかどやされて二の句が継げなかったね」と都内の浅ましい現状に呆れていた。

地震前に購入していて結局そのままになっていたJulia Huelsmann Trio(ユリア・ヒュルスマン・トリオ)の新作『Imprint』を家でかける。このところ音楽を聴く気も失せがちだったが、山形に実家のある学生時代の友だちが車で私の実家まで応援にいってくれるという連絡をくれて、すこしほっとしたのだ。Julia Huelsmann(ユリア・ヒュルスマン)といえば、7~8年前にACTから発売されて大当たりを取った『Scattering Poem』が即座に思い浮かぶ。Rebekka Bakkenの、ねっとりと纏わりつくが確かな芯を感じさせるハスキーなヴォーカルと、ユリア・ヒュルスマンの、控え目で清楚でありつつもなかなかに練りこまれた複雑なリズム構造が印象的なアルバムだ。「ピアニストは頭のいい人が多い」とよく言われるが、ユリア・ヒュルスマンのとりわけコンポーザーとしての知性と洗練された感性が如実に顕われた作品だといえるだろう。これはライブでも実感したことだ。RebekkaのほかにもJudy Niemack(ジュディ・ニーマック)などヴォーカルを迎えてのプロジェクトが多いようだったが、トリオとしてのコアがしっかりしているからこそ、タイプの異なる様々なヴォーカルが入ってもうまい立ち回りが可能であるのは言わずもがな。一見、背後に回って引き立て役に徹しているようでいて、人々の印象に刻まれるのはユリア節としてのフィット感であるという。ユリア・ヒュルスマンと三位一体をなすのは、彼女のパートナーでもあるMarc Muellbauer(マーク・ムエルバウアー:db)、Heinrich Koebbering(ハインリヒ・ケッベリンク:ds)というベルリン・シーンでは連夜ジャズクラブでお馴染みの第一線。Marc Muellbauerは、派手さはないがベルリンのミュージシャンを集めてのビッグバンドを率いたりと、抜群のサポート力を持つベーシスト。Heinrich KoebberingはAki Takase周辺のバンドでも耳にしたことがある人も多いだろう。多分に個人的な印象になってしまうが、ユリア・ヒュルスマンの名前で浮かんでくるのがベルリンの雪の風景であり(冬にザヴィニー・プラッツのA-Traneで数回聴いたので)、その雪のごとく清澄でひんやりとしていながらも跡形もなくふっと消えてしまう、引き際のセンスの良いピアノの音色である。どちらかというと旧東側のアナーキーさよりも、旧西側のスノッブな地区でひっそりと息づいているのが似合うような、そういった意味でのローカル臭を残した上品さであったのだ。それ以来久々に聴くユリア・ヒュルスマン、さて如何に?と興味津々だったが、半分は予想通り。まあ、ECMだからしゃあないが、何か上品になって臭みが抜けたという感じ。ジャケット写真を見てずいぶん垢抜けたな、とは思ったけれど。

もともと、この『Imprint』のジャケットに示唆されるずっと前から、ユリア・ヒュルスマン・トリオのサウンドの特徴は、透かし見るかのような音の融和状態であり三者の音の平等なる共存である(にじみ系、という分類も安易なようでイマイチ)。それらが聴き手の印象に「無足跡という型を残す」などという陳腐な解釈にも持っていきたくないが、なるほど聴いてからしばらくして後に脳裏からちょろっと湧き出してくる。印象の濃い音楽とはいえないが、深層にはきちっと浸透しているのだな、と。曲は大体4~7分のものが12曲。そのうち7曲がヒュルスマンによる作曲。くどいようだがタイトルからも類推できるように、シンプルなメロディを部分的に反復する手法が全体に散りばめられている。夫婦だけあって、ムエルバウアーとヒュルスマンの息はぴったりと合っている。少ない音数とメロディにいかに肉厚に、馥郁たる匂いを持たせるか、という点において成熟を感じさせる。特筆したいのがケッベリンクのドラムス。非常に繊細でしなやか、かゆいところに手が届く。音量も小さく、低音はほとんど用いない。ピアノとベースの隙間の、気孔という気孔から侵入することにより音楽全体を包容している。自身の作曲である"Storm in Teacup"、"Zahlen Bitte"の2曲で見せる内省的な静けさに、メロディー・メーカーとしての卓越したセンスも。アルバムの前半はリズム隊が低音を控えた、ピアノの感情の際を撫ぜるようなメロディが際立つような進行。半ばより、部分的にバスドラやベースのフィンガーピッキングがすとん、と意識を下部へ引っ張るように立ち現われ、秘かやな物語性を生むのに成功している。ただ全体として、重い暗雲が垂れこめているような重圧感が一貫して支配する。そういったモノトーンの趣がアルバムとしての一貫性、というか筋なのだろうか。少々美学偏重のような気がしないでもない。

『Scattering Poem』が出たときに、地元ベルリンの雑誌インタヴューで「たとえばニューヨークなんかに一定期間住むことを、もちろんジャズミュージシャンとして考えないでもない。でも、ああいう常に150%くらい放出するのが当たり前のような街には、自分は馴染めないだろう。ドイツにいれば自分のペースを守れるが、逆にそれはミュージシャンとして危険だということも自覚している」みたいなことを語っていたのが印象に残っている。逆にそういうローカル臭さがユリア・ヒュルスマンの個性の一部だし、思慮深くも時に大胆なピアニズムの発露だったと思うのだが。もちろんそれは新作でも健在だけれども、グローバルだけれども洗練されすぎる方向には行ってほしくはないなあ、と思ってしまう(年齢的な意識の変化もあるのかもしれませんが)。
[PR]
# by kfushiya | 2011-03-19 20:33 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)
c0206731_1941993.jpg

↑銀座の街猫


向かいの寺に集うすずめのちゅんちゅん声で目が覚めたが、なぜか思い出したこともない田舎の小学校時代の記憶が蘇った。人の名前に節をつけて歌にするのがクラスで流行っていて、光一君という子の歌の歌詞が「こうなったらもう一歳~♪」とかいうもので最も執拗に復唱されていた(何でだろ?)。まだ一歳、ではなく「もう一歳」というあたりが期せずして詩的だ。そういえば絶壁の教師のあだ名がエベレストだったし、髪を中途半端に伸ばして真ん中分けにしている男の子は「前葉体」と呼ばれていた。子供というのは理由なく情け容赦ないのう。今の時代ならば「いじめ」の部類に入れられてモンスター・ペアレントが乗り込んできかねない惨状だった、我が世代の地方の公立学校。それにしても、なぜすずめのちゅんちゅん声でこんなことを思い出したのだろうか。何に誘発されるのか、記憶とは恐ろしい。『記憶』といえば、近藤等則とDJ KRUSHの名作があるが、そのKRUSHを久方ぶりに来週頭に聴けそうだ。ベルリンで7~8年前に聴いて以来なので楽しみである。

さておき、以下にまだ若いながら素晴らしい才能のピアニスト、諸戸詩乃さんのリサイタル評の一部を。会場では、諸戸さんを高く評価しておられる谷川俊太郎さんのお姿も拝見しました。


■諸戸詩乃ピアノ・リサイタル
2011年3月1日(火)@東京・浜離宮朝日ホール

《プログラム》
モーツァルト:ソナタ第12番ヘ長調K332
シューベルト:ピアノソナタ第13番イ長調op.120, D.664
<休憩>
シューベルト:4つの即興曲op.90, D.899
リスト:『巡礼の年』第3年 S.163より
第2曲「エステ荘の糸杉に寄せて~哀歌」
    第4曲「エステ荘の噴水」
*アンコール
シューベルト:楽興の時第6番


2003年よりウィーンに居を定める諸戸詩乃は弱冠18歳、この日が日本での正式なリサイタル・デビューとなる。名古屋に生まれ4歳よりピアノを始め、10歳でウィーンに渡ってからは名教師エリザベート・ドヴォラック=ヴァイスハールに師事。15歳のとき史上最年少でウィーン国立音楽大学へ飛び級入学。ピアノ教育界の世界的権威であるハンス・ライグラフや、ヤン・イラチェック・フォン・アルニンにも薫陶を受けている。ウィーンではウィーン芸術週間に招聘されるなど、順調に音楽活動を続けているという。日本においては2007年に堤俊作指揮・ロイヤルチェンバーオーケストラと共演したほか、2009年にはカメラータ・トウキョゥからデビュー・アルバムをリリース、2011年2月にもシューベルトの新譜を出したばかりである。

清廉で、泉のように湧き出る音楽性。特筆すべきは音色の美しさである。太くクリアな芯を持ち、その周囲は甘やかな丸みで包まれている。純度の高いクリスタルのような響きを放つ一方で、鋭角的になりすぎない優美さをも併せ持つ。打鍵はいかにもウィーン流らしく、かっちりと深く降ろされる。プログラム全体を通して驚くほど精確だが、それが機械的には決して響かない。空気のように周囲に漂う掴みどころのない情緒、それが音楽の本質であるならば、見事に本質そのままのピアニストであるといえるだろう。その音楽は外界との間にへだたりを全く感じさせない。あまりにも自然に風土や情景、作曲家が生きていた時代背景がゆらりと現前する。極めて高い集中力によって到達しうる珠玉の世界ではあるのだが、水のように絶えず流れている澱(よど)みのなさで聴き手を包む。

冒頭に奏されたモーツァルトのソナタ。単音の珠がころころと転がるさまが印象的な作品だが、諸戸が持つ音楽性と音色の美質を堪能するにはうってつけの選曲。単音がとりわけ美しいピアニストであるだけに、シンプルな旋律のラインが伴奏部のあわいを縫って立ち現れるとき、ぱっと灯がともされるような華やかな衝撃をもたらす。叙情的でなめらかな伴奏部にハイライトの効いた単音が織り込まれるさまは、モーツァルト特有の安定感に不足すると捉えられかねない反面、儚さや移ろいといった成熟した側面をも照らしだす。同時にその凹凸感は、作曲された当時の未完の楽器状態への想像力も掻き立てる。たとえば一音一音をフォルテでくっきりと際立たせるようなマルカート的な打鍵は、ピアノのハンマー部分を意識させる。靄(もや)のなかから立ち現れ、綿菓子のように空気に溶けてゆくような、入(い)りと抜けの良いピアノ。音色の色彩は極めて豊富なだけに、奏者の成熟とともにさらなる陰翳が加味される時が待たれる。

呼吸することがそのまま音楽であるかのような諸戸のピアニズムとシューベルトは好相性のようである。ロマン派の作曲家であるがゆえ、一層制約から自由に、のびやかになっていると見受けられた。ベーゼンドルファーの鳴りも曲を追うごとに良くなっていく。通常、ロマン派の表現というと激情をそのままぶつけるアプローチが多いなか、諸戸の演奏はそういった急激なエネルギーのほとばしりとは趣を異にする。パッセージが低音部から高音部へ移行するときの自然に気分が高揚する部分でも、ことさらにクレッシェンドされることはない。むしろパッセージの基点となる音を中心として大きく孤を描くような、息の長いフレージング。基点がしっかりと鳴らされ、そこから響きは同心円状に広がってゆく。テクニック的にも無駄のない脱力がなされているようだ。そうした呼吸や身体コンディションと順応しきったナチュラルさは、ともすれば聴き手が期待する盛り上がりからすり抜けてしまい、少々肩すかしを食ったような気分になる人はいるかもしれない(とくに即興曲D90-2など)。しかし、シューベルトの醍醐味でもある、求心的に音楽が攻めてくるのではなく、気が付いたら周囲に音楽が満ち溢れていた、という「やわらかな音の共生」の世界は見事に具現していたといえるだろう。・・・・・・


続きは次回更新jazztokyoにて。林喜代種さんの素敵な写真が入ります。
[PR]
# by kfushiya | 2011-03-05 18:44 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)
c0206731_3374132.jpg

↑素晴らしき完成度の『Rainning on the Moon』(Thirsty Ear;2002)



昨年はライヴでチェロを聴くことが多かった。奏者が素晴らしかったのは言うまでもないのだが、弦楽器そのものが有する「ひとはじき」の広がりにも幻惑されたといってよい。一音が内に抱え込む無数の声。類似の形をもつダブルベースはどうだったかといえば、クラシックでもそれ以外の形態でも「難しい楽器だなあ」というのが正直な感想。たとえば、チェロと一緒に奏された場合、どちらかが埋没してしまうことが結構ある。音自体の伸びがあまりよくない楽器ということもあるのだろうが、随分前から流行っているいわゆる「ベースレス・トリオ」というのを見ても、その部分を他の楽器で賄おうとする傾向が強い。だからこそ、コントラバスで豊かな詩情や存在感を出している奏者と出会うと感激もひとしおだ。日本のシーンで言えば、トッド・ニコルソン。確実に「音の強さ」以外のところで目立っている。一音でこれほど雄弁になるということは、一見看過されやすい低音で乾いてくすんだ音色(おんしょく)であることを考えると、驚愕すべき資質と言わざるを得ない。リズム感や技術的なことももちろんだが、それ以上の人間性とセンスが寡黙に、そして情け容赦なく語られる。

最近まとめて聴いているNils Wogramのバンドでも、ケルン・シーンの若手、マット・ペンマンの渋さに唸ったが、アコースティックのベースに傾聴していくと無性に恋しくなるのがWilliam Parkerの『Raining on the Moon』だろう。Parkerといえば、マディー・ウォーターズにちなんだアルバムを出したばかりとかで、ふとしたことから再びブルースを聴きこもうと思っている自分にとっては時宜にかなっているアーティスト。タイトル名がそのままプロジェクト名になって続いているらしいが、あまりにこの一作で完成度が高いため以後の活動が地味に感じる。ParkerはもちろんHamid Drakeなどキラ星のメンツだが、ヴォーカルのLeena Conquestって一体誰じゃ?、というのがこのアルバムを聴いた誰もが思ったはず。自分もこれを聴くまで全く聞いたことがなかったが、なかなかに味のあるシンガーで、初めて聴く声のはずなのに、非常にこなれたしっくり感、というか新鮮かつ既視感(既聴感?)があるのだ。久方ぶりにこのアルバムを引っ張り出して、もう音を出す前に一曲目の「Hunk Papa Blues」のサワリ、バーンとダブルベースがはじかれる瞬間ですでに震えが来るが、曲を追うごとに驚くほどそのベースラインが記憶にこびりついているのに気づく。7~8年ぶりに聴いたのに、だ。考えてみれば、楽器によらずリフとかミニマリスティックなプレイというものは、意識的にせよ無意識的にせよ「聴くものの骨身に刻みこまれる」効果(というか結果)を生まなければ意味がないのであって、その意味でこのParkerのシンプル極まりない小細工なしのべースラインのリフは、徹底した効果をあげていると言える。1曲目から8曲目まで、最初の一音が鳴らされるや否や、たちどころにすべて思い出すのだから。ベースラインがシンプルならば、歌詞も口ずさめるほどストレート。Parkerの音楽がその本質に宿すところの苦渋やペーソスに、その達観の域に達したかのようなドライな寂寥に、複雑な技法や構造はもはや不要なのかもしれない。明るいとはいえない世界なのだが、なぜか心が暖まる。考えてみればHamid Drakeというのも、たった一音で自己をすべて語れるアーティストである。自己表出の速度があまりに迅速で、ゆえに空気と即座に混ざり合う為、聴く者にとってはどんな爆音を出されても衝撃や異物感はないのだ。個性はそれぞれだが、近藤等則や田村夏樹にも同じ感慨を覚える。その意味で、本作に参加しているBob Brown(a.sax;fl)とLouis Barnes(tp)には、サウンド全体に彩りを添えてはいるものの、ここまでの「割り切りの良さ」というか突き抜け感は感じられない。極めて人間臭い好プレイであることは間違いないが。

で、Leena Conquest。都会的で品があるがモノ足りなさは全く感じない。張りのあるハスキー・ヴォイスに、そこはかと漂いながらも決して消えることのない泥のような粘着質。ファンクやソウルが、その本筋がブレることなしに、頑なに世界観を閉ざすことなしに、自然な形で同時代を吸収していった発展形の、飾らない姿がここにある。灰汁が弱くは決してないが、切り口がソフトなのだ。だからこそシンプルな歌詞が水を得た魚のようにうまく乗るし、聴くものの深層にぽっと宿る。7曲目「James Baldwin to the Rescue」は、このLeenaのヴォーカルといい、感極まるDrakeのドラムといい、曲想の成熟度といい、掛け値なしにアタリの1曲。Leena Conquestは、粘つくようなファンクネスと正統派ジャズ・ヴォーカルの洗練の両面を合わせ持つが、たまに後者の側面が前面にでるときには、誠にヨーロピアンな薫りを放つ。アフリカン・ルーツでオランダあたりの出自か、と勝手に推測していたが、テキサスはダラス出身。ピアニストのDave Burrelとのデュオで録音もしているようだ。アフリカンなタイトルの終曲は、ダブルベースにエフェクターが掛けられてハープのような夢幻的な拡張を見せるサウンド。対するヴォイスにはどこか現実的醒め感が漂う。
[PR]
# by kfushiya | 2011-01-06 03:53 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)
c0206731_9245244.jpg

↑ナルシソ・イエペス『リュートのための作品集』(廃盤)


かのアルフレッド・コルトーは一日4時間以上は絶対練習しなかったというが、朝の練習はバッハの『平均律クラヴィーア』を全二巻通して弾くのを日課にしていたという。言うまでもなく指慣らし以上の意味がそこにはある。極力個人的な感情を排して音楽自体の構造のなかへ埋没することで、自分の手を離れたところの「音楽それ自体」が蘇生するのを客観視する、という訓練か。毎回違った顔が現れる奥深き「定型の美」の実践を、叙情の大家が行っていたところが面白い。「主観」の切り離し訓練が、自己の表現における途轍もないロマンティシズム放出の源泉となっている事実。

クラシックの世界に限らず、構築力や構成力に秀でた芸術家はほぼ例外なく「バッハ弾き」である。「繰り返し」をして倦むことの知らぬグルーヴに転化せしめる優れたミニマリズムの源泉もここにあるような。音楽自体の自律した力と運動性。演奏者が中途半端に「バッハとはこういうもんだ」と先入観に満ちた思い込みをそこに被せようとしても、玉砕させられるバネの弾き(はじき)みたいなもんか。作品自体の力に撥ね退けられる。ひたすら無我になって黙々と取り組んだ場合にのみ達せられる、作品と演奏者の崇高なる合一は、依然稀なのかもしれない。

ナルシソ・イエペス(Narciso Yepes)。「アランフェス協奏曲」、『禁じられた遊び』などとほぼ同義としてあまりにも有名なため、さすがこのクラスの著名人になるとWikipediaでもある程度の情報が網羅されている。生い立ちやホセ・ラミレスⅢとの10弦ギターの創案などはさておいて、このウィキで面白いのは批評欄である。ポジティヴな評以上にネガティヴな評が多いからだ。どうも評価の分かれ目は、その細部にまで緻密に神経の行き届いた高精度テクニックを「繊細で無駄がなくスマート」と受け取るか「機械的無味乾燥で冷徹」と受け取るかにあるらしい。「その素晴らしいテクニックにも関わらず、音楽から程遠いところにある」とか「単調で気取っていてこれ見よがしに感傷的でリュートの楽しさを完全に損ねている」とか、極めつけはPeter Paeffgenというドイツ人のおっさん。「(リュートという)楽器選択だけを見れば、イエペスをギュスタフ・レオンハルトやニコラウス・アーノンクールと同列の『古楽のパイオニア』と称せようが、それは実際にリュートという古楽器でバッハを録音したからだ。(中略)それでも評判がいいのは、イエペスがすでにギタリストとして名声を得ているのと、ドイッチェ・グラモフォンの録音技術が高いからだ。あいにくその録音技術の高さが、いくら歴史的な楽器を用いてもその音楽から『古楽』を引き出せないということを証明してしまっているが」とまで言い切っている。こういうのを読んでいると、結局人はイエペスに「アランフェス協奏曲」のイメージを一生背負わせようとしていたのか、とか、スペイン人=激情のジプシー的音楽、という短絡思考で絡めとろうとしていたのか、とか、前例にない奴はどこの世界でも叩かれるのか、とか邪推してしまう(渥美清や高橋元太郎が「寅さん」と「うっかり八兵衛」以外の役が出来なくなるのに近いか?)。ひどい話だが、一握りのスターだけが持ちえる苦悩かもしれない・・・。

さておいて、このJ.S. バッハ『リュートのための作品集』は秀逸だった。弦の一本一本が生命を得、謳っている。イエペスという演奏者の人となりの反映は最小限に留められている(ような気がする)。冒頭でも述べたが、バッハ演奏の極意はいかに黒子的に自己を埋没させて音楽の構造自体を操れるか(骨組みだけに謳わせることができるか)である。ただの感情の発露は精神性が低い人間にも可能だが、バッハに求められるはひたすら地味で精神的な作業だ。率先して苦行を担うようなマゾ的ストイシズムを乗り越えた先にあるものが、そのバッハ演奏の美の質を決定する。何だか坊さんの世界みたくなってきたが、精進料理しか食っていないはずの坊さんたちの顔があるときからふっくらして来る現象、と似た何かを演奏者に強いるのではないだろうか。それはある瞬間にふっと匂いたつ類の極めて「気配」的なものであるので、到達の実感を捉えることは難しく。その現象を想定してかかろうものならとんだしっぺ返しを食らう(巷に多い、お洒落な煩悩バッハ)。一見無味乾燥なメカニズムに意味を見出せるか、一音一音を規定のピッチやテンポの範囲内で開放できるか、意識を細部に拡散させながら統合できるか、感情を覚醒の段階まで持っていけるか、などなど課題を無数に孕むのだ。イエペスの発する音には邪念がない、のに円熟している。確かにグレン・グールドのバッハなどに比べれば灰汁は薄いだろうが、自身を無色化することに成功した男の境地が確かに息づいている(「アランフェスの男」はもうここにはいない)。

非常にニュートラルな地点を示す音楽、にして、何かの「基準」について思いを巡らすときに自然と体に染み入る。
[PR]
# by kfushiya | 2010-09-15 09:22 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)

続・Archie Shepp

c0206731_1254531.jpg

↑Archie Shepp『For Losers』既成概念を嘲笑うかのようなジャケも最高

この週末もライヴに行こうかどうか迷ったが、結局金曜日の「八木美知依ソロ+マッツ・グスタフソン」以降(このライヴもソロ中心だったので、楽器自体の持つストイシズムを八木流ポエジーとブルースで味わい深く際立たせたものを堪能できた。ルーパを使って実況を蓄積させていくところでは、かなりファンタスティックに木の世界へと分け入ることが出来た。日本の≪桐林≫より≪西洋の森≫をイメージされた方が多かったのではないか)、ずっとこのArchie Shepp漬けになっていた。いやはやすごいアルバムだ。人生が全部詰まっている。臓物の煮込みのような世界だが、そういったブチ込み料理には必須の、強烈な「臭気」に満ちている。そもそも"Funk"の語源は「臭い」なのだから、無臭とか漂白があってはならないのだが。それにしても!、だ。これほどキョーレツに人生を感じさせてくれるアルバムも珍しい。凝りに凝ったフランス料理より、新鮮素材にそのまま塩しただけのようなカカアの家庭料理に人は立ち返る、のが生活というものだ。生活臭に満ち満ちたエネルギーにこれほどの感涙や充実感を覚えるということは、現代の生活臭というものがいかに稀薄で軽薄な嘘で塗り固められているかに気付くからなのではないか。人と音楽との感応が、実人生の経験とどの程度符合するのかは不明だが、部類的にはお嬢ちゃん育ちである自分をもこれほど感動させられるという事実。人の嗜好というものも、育ちや生活環境よりも持って生まれた何かによって形作られるところ大なのかもしれない。何でこの親からこんな息子が生まれるんじゃ、と首をかしげたくなる例が巷にはあるが、そういったDNA文脈の畸形があるから人生や出会いは面白くなるのだ、と感慨深くなる。

どっかで理屈に合わない跳躍やらスキップがなぜか結実して面白くなる例、の絶好のサンプルがこの『For Losers』だろう。洗練をあざ笑う圧倒的に野太い生命力の乱れ咲き。社会的ポジションと統制の取れた学歴と無縁という点で、自分など日々"Loser"を実感させられている昨今だが、堂々と「労働者で何が悪いんだ」と勇気づけられるような気もして、何とも時機にかなったアルバムでもある。このアルバムは1968年から69年にかけて行われた異なるバンドによるセッションをひとつに束ねたもの。収録曲は1. Stick 'em Up、2. Abstract、3. I Got It Bad (and that ain't good)、4. What Would It Be Without You、5. Un Croque Monsieur (Poem: For Losers)の5曲。冒頭の"Stick 'em Up"で見事なR&B節を聴かせるLEON THOMASのヴォーカルでほとんど泣き笑いのハイテンションに見舞われてしまうが、続く" Abstract"における、テナー/アルト/バリトン/トランペット/フリューゲル/トロンボーンといった管楽器総出の厚みがリズミックに確実に体に堆積していく、泥臭さ満点の安定感も最高。確実に楽しい気分にさせてくれる、という麻薬の曳きを音楽で体現。Charles Davesが醸し出す、感度の悪いラジオの雑音が地べたを這うかのごときバリトン・サックスもユーモアたっぷり。『Blase』同様、Dave Burrell(今回はオルガン)の煩悩を拝したプレイが全体の秩序を影で支えている。意外にいいのが3.と4.のバラードで、Woody Shawの勇壮なトランペットが曲全体に締まりやバネ感を与えていることも大きいのだろうが、破天荒な男のロマンティシズムこそかくも深いものなのだと納得させられるサンプルのごとき、シェップのプレイも艶やか。ここに至って登場するののが、このアルバム全体の事実上の主役ともいえるChinalin Sharpeという謎のオバサン・シンガー。姿は分からないが、確実にソウルフードを長年食い続けてきた強烈な体臭と体躯のファンキーおばさんであることを、その声質が如実に語る。まあ、3曲目あたりではまだ仮面をかぶっているような気がしますが(男たちのロマンティシズムを壊さない範囲での歌いっぷりなので)。

で、やっぱり白眉は最後の"Un Croque Monsieur (Poem: For Losers)"なのだ。全部をかなぐり捨てた後の感動がある。吐息まじりのバリトン・サックスのG#音からスタートし、そこにシェップのテナー、ピアノ、ベースが参画、Ceder Waltonのピアノが強圧的に奏でる"G#/C#/F#/D/G#/C#/F#/h/G#~"のリフレインが強烈なグルーヴとなってうねるなかを、前述の臓物(?)おばさんChinalin Sharpeの滋養強壮的なすさまじいヴォーカルが"LALALALALA~"と濁流のようになだれこんで来る。この、男声でも女声でもないただの「肉塊パワー」にぶちのめされる。こんな調子で呪いを掛けられたようなピアノのリフレインが6分近く続く。途中、フリーっぽいピアノとベースを中心とした「寂」の時間や、地鳴りのように底から湧きあがる粘着力に満ちた管のオーケストレーションを挟んで再びピアノが盛り返す。こういった向かい風を受けてビンビンに乗ってくる"For Loser~"の歌詞の清々しさは感動もの。Wilbur Wareのぐわーんとダイナミックにしなうベースとも好相性。ピアノとドラムは時に不整脈的に絡むが、バスドラの微妙なもたつき感も土砂が流れる感じでいい。〆めは再び"C#/G"/C#/D/E/F#"の高圧ピアノユニゾンによるリフレインだが、終盤にベースのするっとした遊び心が楽しい。

登場人物が多すぎて「肝心のシェップはどこへ行った」という感じだが(そりゃ目立つとこでは目立っているけれど)、無法地帯をノリで束ねてしまうところに彼の凄さがある。バン・マスの技量はこういうところでこそ測られる。
[PR]
# by kfushiya | 2010-09-13 12:33 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)

Jeanne Lee 二本立て。

c0206731_17181050.jpg

↑Jeanne Lee & Ran Blake『You stepped out of a cloud


音楽の魔境に入っております(笑泣)。Gunter Hampelの亡き妻・Jeanne Lee(1939-2000)がピアニストのRan Blakeと組んだアルバム『You stepped out of a cloud』。美しい、という言葉で到底語りつくせるものではない。「身体」を感じる、という次元を遥かに超えた、肉体の生感覚そのままのLeeのヴォイスはもちろんだが、Ran Blakeのピアノが鳥肌もの。聴いたのはこのアルバムがはじめてだが、あらゆるジャンルのピアニストのなかでも最高峰のクラスに入るピアニストだ。ウェヴによるとまだ75歳でご存命のご様子。もっと知られてもいいのに、と思う。本人のHPもなんだか淡々としていて見やすいともいえず、これを見ても目立ったり自分を売ったりすることにはさほど関心のない方のようだ。バード・カレッジ出身で、作曲とインプロをRay CassarinoやOscar Peterson、Bill Russo、Mary Lou Williams、Mal Waldronなどに師事した。主に名バイプレイヤー、教育者として知られているらしい(来る9/20には75歳バースディ記念コンサートを教鞭をとるニューイングランド音楽院で行う模様)。何といってもピアニストの天分が如実に宿り、すべてが還元されるところでもある「音色の美しさ」において比類ない。甘美だが屹立した音質、ヨーロッパのクラシカルな構築美とガーシュウィン的な陰影、ジャズのイディオムが見事に溶け合いどこにも属さぬ普遍の中立性を獲得。気負いがなく自然。魂そのものの肉体化、ってことか。このアルバムが秀逸なのは、デュオとソロ構成、ということを一瞬忘れる、音そのものの自立性の見事さだ。たとえば二曲目の"Newswatch"。ヴォーカル無伴奏ソロ、だが意識されるのは「肉声=魂」のみ。激情に任せて咆哮する部分は皆無なのに静かに熱い。発音されている言語(英語)自体が、ただの心地よい音として知覚されうる。非言語を「ヴォイス」として表現するより、普通の言語をそのまま音として響かせるほうが、ワザを要するに違いない。三曲目のピアノソロ"Where Are You ?"も同様。何という音質なのだ!と感無量となりそれ以上の感想不要。扇情的なのに棘のような気品と甘美さ。電子楽器で如何なる音を重ねても、この生ピアノに比べれば音質は安い。"You Go to My Head"、"Corcovado"、"Alone Together"などのスタンダードも、余計な演出の引き出しを出す必要はなくストレートに、そのまま「イイ」。"You Go to My Head"はたまたまFlora Purimのものを持っていてよく聴いていたが、これを聴いた後では何とも俗だ。「デュオ」がガチンコの鬩ぎあいなのも刺激的だが、Lee+Blakeのようにアンサンブルの妙を出しつつ、互いに抑えて本音を言うのもまた違った官能の妙味。

c0206731_18431884.jpg

↑Archie Shepp『Blase

Jeanne Lee参加のお次は、この最高のキチガイ世界特盛り盤『Blase』(BYG)。パーソネルはLester Bowie (tp) 、Archie Shepp (ts) 、Chicago Beauchamps: Julio Finn (hca)、 Dave Burrell (p) 、Malachi Favors (b)、 Philly Joe Jones (d) 、そしてJeanne Lee (vo) と超豪華。供出される世界も抜かりなく狂っている。これぞ"Euphorie"なのかしらん。"Orgie"よりディープな気がするが(どうしようもない暗さを乗り越えている点で)。前掲のJeanne Leeとは似ても似つかぬ世界。冒頭の"My Angel"で展開される名実ともにブラックな世界に、もうこちらは笑うしかない。ブルース・ハープが乱舞するのっけから南部のごてごて乗りの中に、Sheppの濃厚なテナーが参画、序々ピアノ、ベース、タンバリンが畝ってどうしようもなく盛り上がる祝祭気分。そこに塗り重ねられるJeanne Leeのすっとぼけて高音で湿気の多いボーカルがつぶやくのは" Give me a Money"、"Honey Money"といったフレーズ(今の私の気分にも一番近いかも。くくく・・)。それにしてもSheppの、腹の底のもっと下のあたりから絞りとられたような音は極めて艶やか。血と肉の音。次の"Blass"もなかなかに凝っている。Malachi Favors が静かにベースラインを繰り返し、Dave Burrell が規則的にコードを鳴らす上に、メランコリックでやるせなさに満ちたサックスとヴォーカルが乗ってくるが、この歌詞がまた爆笑もの(淑女に発言ははばかられる)。だが、言葉の意味とは独立して、醸し出されている音楽の調子はあくまで、人生の憤懣や哀愁やどうにでもなれといった「もてあまし気味のレアでマジな感情」を保っているのがすごい。だから最後の一線で下品に堕さないのである。特に、Burrelの感情に楔を打ち込むかのごときピアノ、曲が進むにつれて白熱の真摯さを帯びてくるのが歌詞と逆行していて聴き所のひとつ。奇妙に明るいノリで勝手に吹き狂っているブルースハープが、無情に流れていく現実そのもの。そのほか、いかにも1969年録音らしいフリーの雰囲気濃厚なピアノが疾走する"Sophisticated Lady"や 、ドラムとサックスの丁々発止がそのまますとんと気持ちいい"Touareg"(エンディングも粋です)など、その精神状態のごちゃ混ぜ感が純粋に聴く者に快楽をもたらす一枚。

言葉を潰してノイズとして音化する、というより、言葉をそのまま音として現出して遊ばせながらその意味だけを剥ぎ取る、という高度なワザを肉体化しているJeanne Leeの実力に感服。深い音盤と向き合う歓びは今しばらく続きそうです。

ライヴ評は次回。
[PR]
# by kfushiya | 2010-09-10 12:13 | 音楽と日々雑感 | Comments(6)