アンソニー・ドーアの『メモリー・ウォール』という小説をたまたま読んでいるのですが、それと軌を一にしたわけでもあるまいに、連続して物を落としたり紛失したり(しかも大事な想い出の品ばかり)、自分の記憶や行動が全く信用できなくなる日々を送っていましたが、昨夜は気をとりなおして『三人のピアニスト』というライヴを鑑賞。場所は、普段クラシックのサロンコンサートがおこなわれているという赤坂のカーザ・クラシカ。やたらとイタリア料理屋が多い一ツ木通りを直進していくと、雑居ビルの地下にひっそりとあるお店。店内が狭いこともあり、設置ピアノはヤマハのC2と小柄だったものの、猛烈な迫力の音響でした。以下、少々感想を。
この企画は航に拠るもので、彼女に近しいピアニストである本間太郎、そしてベルリンから一時帰国したばかりの藤井郷子、という剛腕ピアニストによるそれぞれのソロ三連発。各セットはほぼ45分づつといったところ。
トップバッターは航。航のピアノでいつも思うのは鍵盤の表面の手触りが顕著に聴き手にまで伝わってくることで、一音一音がマルカート的に印象に刻みつけられる。思えば、ライヴで聴くときはいつもデュオ編成でエレピだったので、生ピアノでしかもソロはこれが初めてか。パーカッションが入っていなくとも、打鍵のヴァリエーションで僅かな隙間もコントロールされてゆく、その推移が実に鮮やか。それは例えば、同形反復のときにリズムと色彩がブレンドされて唐突な窪みが現れたり(2曲目「火の粉」)、鉛のような強靭さで打ち降ろされる第一音からひと筆書きに余力で描かれるパッセージ(3曲目「蜘蛛と蝶」)の浮遊感など、絵画に喩えれば水性アクリル画のようなライトさと見通しの良さがある。曲順もよく、声とピアノの音質を合わせた静かなチューンから、演劇的なパースペクティヴの「ペテン師△♯18」、ブルージーな低音の「山頭火」と、メリハリが効いている。最初と最後のチューンを日本的な景色を彷彿とさせる曲調のものでまとめていたのも、メビウスの輪ならぬ潮の満ち引きのようで物語性豊か。
セカンドセットは本間太郎。「天国」というバンドで活躍しているが、植村昌弘「MUMU」のキーボーディストでもある。「天国」は一度聴いたことがあるが、そのときは出演バンドが異様に多かったこともありあまり記憶に残っていなかった。が、今回聴いて凄いピアニストであると実感。まずその正確無比な打鍵。音の絞り。スピード感。と来れば、誰かを聴いたときの感慨に近い------そう、植村昌弘のドラムに近い境地をピアノで実現している人だなあと(ピアノも究極打楽器ですが)。このピアニスト自身がもつ音色がとても豊かで深く伸びがあるため、ペダルはほとんど不要ではないかと思われる。地声ならぬ地音(?)が幾次元にも渡る音の広がりをもっているため、本人は意識してなのか無意識なのか常に複数の効果が上がっている。聴くほうも飽きがこない。流麗なアルペジオの波のなかにハッとするような金属質が紛れ込んだり、楽器の原理を抱き込んだ、ピアニスト自身のテクニックと楽器との歯車の良さに終始魅せられた。とりわけこの人の左手はゴッドハンドといえるほどの能力。最後に弾いたジョルジュ・シフラ風「火祭りの踊り」では一気に余韻やぺダリングの妙を凝らした演出で、エレピと見紛うようなビリビリ音を叩き出す瞬間もあった。
そしてトリは藤井郷子。いつもながらの強靭な音宇宙で、女性的とも男性的ともいえない凛としたたたずまいがある。ポリフォニックな音は「ピアノはオーケストラにも喩えられる」などという使い古された表現を引き合いに出すべくもなく。ユニゾンですら丸みを帯びた柔軟性に富み、不協和音的な箇所も緊迫や威圧感としては感じられない。自然の帰結たる盛り上がりなれど、予定不調和な立体をなす音楽こそ藤井郷子の凄いところか。プリペアドを使った一曲では、鈍い青銅の鐘の音からガムランまでを感じさせる、各部が自由に歩行しつつも不思議な対話を繰り広げるものだった。
終演後に田村夏樹氏からベルリンの話を伺ったり、客席も悠雅彦氏をはじめ存じ上げている方も多く、楽しいひとときでした。田村氏曰く、現地でもやはりアキム・カウフマンは凄い!の呼び声高しとのこと。皆さん是非聴いて下さい。
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by kfushiya
| 2011-12-22 12:26
| 音楽と日々雑感