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by kfushiya
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Food “Quiet Inlet”(ECM;2010)

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ECM;2163


来月イアン・バラミーとトーマス・ストレーネンによるユニット”FOOD”が来日するので楽しみだ。巻上公一氏のご指名で、名古屋TOKUZO公演のフライヤ紹介文を書かせていただいた。今回の公演ではこのユニットに、巻上公一、ニルス・ペッテル・モルヴァルが参画するが、ほかにも日本のさまざまなミュージシャンが共演するようだ。本当は観光も兼ねて名古屋に行きたいのだが、日程的に許さなそうなので横浜のBankArt公演かな、自分が行くのは。

てなわけで、ECMより出ている最新作の"Quiet Inlet”(2010)を引っぱり出して聴く。計7曲収録されているが、ゲストはクリスチァン・フェネシュとモルヴァルのふたりで、一曲目からほぼ交互に参加する。独特の閑寂の気配が全体を通して支配するのはECMだから当然といいえば当然であるけれど(タイトルからも)、やはり聴くほうにかなりの集中力を課す、というか無言で圧力をかけてくるような凄みがあるのは奏者とクルー両サイドの熟練の賜物だろう。実際、注意力散漫な状態であったり、音質の悪いオーディオ環境で聴いたりすれば、かなり遠くからの不可思議な音群、といった捉えどころのない印象を生みかねない。それくらい空間のおおい音楽であり、だからこそライヴで聴いてこそ素晴らしいと思わせる。しかし、こちらが集中していればいるほど、無限の奥行に捉えられ、濃厚な音の広がりや残存に足もとを掬われる。FOODは、とても自由なユニットで、毎回多様なゲスト・プレーヤーにも開かれている世界なのだろうが、突き抜け感と同時に音が積み重なってゆく考え抜かれた緻密さと計算高さがあり、その矛盾が聴く者の感覚を引きちぎる。人工的であるはずのエレクトロニクスは、ストレーネン、モルヴァル、フェネシュの3人が用いてはいるが、ノイジーな瞬間はあまりなく大人しめ。あくまで肉体によって制御されている感が失われておらず、だからこそリード楽器も映え渡る。フェネシュを聴くのは、実はいつだったかの『Nine Horses』以来なのだけれど、浮き沈みのバランスが相変わらず何ともいえない。いわゆるギターらしい音は終盤以外はあまり感知されないが(7曲目Fathomで溜めていたものが一気に花開く感じがいい)、いかなる形状でも独特のポエジーが絶えず滲みでているという。フォームを超えているのだ。個人的には、ニルス・ペッテル・モルヴァルが入ったときに生まれる、とたんに空間がぐわんと歪んでいきなり大きな距離を跨いだ感覚が生じるところが好きだ(録音技術抜きにしても)。やわらかな息吹だが、一瞬にして遠方までを凍らす怜悧な質感が張り巡らされる。バラミーとモルヴァルのリードによる掛け合いは、中東っぽさを感じさせながらも、どこか臭みが抜け切った牧歌的で瞑想的な境地であり、それは人造的な理想郷みたいなものには違いないのだろうが、そうした行き先不明のノスタルジーこそが音楽の醍醐味でもあるわけで。同じ時期に来日するThe Necksのトニー・バックにしても、現代のすぐれたドラマーというのは本当にいろいろ出来るもんだなあ、とトーマス・ストレーネンの確固としたヴィジョン抽出力にも感服することしきり。

気分はすっかり4月なのだが、まだ3月なんだよなあ。25日は父親の77歳の誕生日を祝うべく(ついでに数日後に控えた数えたくもない自分の37回目の生誕の日をいっしょくたにし)実家へ日帰りするが、このところの体調の悪さを考えると夜行バスは気が重いなあ、やはり。父が健在なことには感謝することしきりだが、自分も歳を食うわけだ、とふと身に沁みる春分の日。
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# by kfushiya | 2012-03-20 22:24 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)
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アンソニー・ドーアの『メモリー・ウォール』という小説をたまたま読んでいるのですが、それと軌を一にしたわけでもあるまいに、連続して物を落としたり紛失したり(しかも大事な想い出の品ばかり)、自分の記憶や行動が全く信用できなくなる日々を送っていましたが、昨夜は気をとりなおして『三人のピアニスト』というライヴを鑑賞。場所は、普段クラシックのサロンコンサートがおこなわれているという赤坂のカーザ・クラシカ。やたらとイタリア料理屋が多い一ツ木通りを直進していくと、雑居ビルの地下にひっそりとあるお店。店内が狭いこともあり、設置ピアノはヤマハのC2と小柄だったものの、猛烈な迫力の音響でした。以下、少々感想を。


この企画は航に拠るもので、彼女に近しいピアニストである本間太郎、そしてベルリンから一時帰国したばかりの藤井郷子、という剛腕ピアニストによるそれぞれのソロ三連発。各セットはほぼ45分づつといったところ。

トップバッターは航。航のピアノでいつも思うのは鍵盤の表面の手触りが顕著に聴き手にまで伝わってくることで、一音一音がマルカート的に印象に刻みつけられる。思えば、ライヴで聴くときはいつもデュオ編成でエレピだったので、生ピアノでしかもソロはこれが初めてか。パーカッションが入っていなくとも、打鍵のヴァリエーションで僅かな隙間もコントロールされてゆく、その推移が実に鮮やか。それは例えば、同形反復のときにリズムと色彩がブレンドされて唐突な窪みが現れたり(2曲目「火の粉」)、鉛のような強靭さで打ち降ろされる第一音からひと筆書きに余力で描かれるパッセージ(3曲目「蜘蛛と蝶」)の浮遊感など、絵画に喩えれば水性アクリル画のようなライトさと見通しの良さがある。曲順もよく、声とピアノの音質を合わせた静かなチューンから、演劇的なパースペクティヴの「ペテン師△♯18」、ブルージーな低音の「山頭火」と、メリハリが効いている。最初と最後のチューンを日本的な景色を彷彿とさせる曲調のものでまとめていたのも、メビウスの輪ならぬ潮の満ち引きのようで物語性豊か。

セカンドセットは本間太郎。「天国」というバンドで活躍しているが、植村昌弘「MUMU」のキーボーディストでもある。「天国」は一度聴いたことがあるが、そのときは出演バンドが異様に多かったこともありあまり記憶に残っていなかった。が、今回聴いて凄いピアニストであると実感。まずその正確無比な打鍵。音の絞り。スピード感。と来れば、誰かを聴いたときの感慨に近い------そう、植村昌弘のドラムに近い境地をピアノで実現している人だなあと(ピアノも究極打楽器ですが)。このピアニスト自身がもつ音色がとても豊かで深く伸びがあるため、ペダルはほとんど不要ではないかと思われる。地声ならぬ地音(?)が幾次元にも渡る音の広がりをもっているため、本人は意識してなのか無意識なのか常に複数の効果が上がっている。聴くほうも飽きがこない。流麗なアルペジオの波のなかにハッとするような金属質が紛れ込んだり、楽器の原理を抱き込んだ、ピアニスト自身のテクニックと楽器との歯車の良さに終始魅せられた。とりわけこの人の左手はゴッドハンドといえるほどの能力。最後に弾いたジョルジュ・シフラ風「火祭りの踊り」では一気に余韻やぺダリングの妙を凝らした演出で、エレピと見紛うようなビリビリ音を叩き出す瞬間もあった。

そしてトリは藤井郷子。いつもながらの強靭な音宇宙で、女性的とも男性的ともいえない凛としたたたずまいがある。ポリフォニックな音は「ピアノはオーケストラにも喩えられる」などという使い古された表現を引き合いに出すべくもなく。ユニゾンですら丸みを帯びた柔軟性に富み、不協和音的な箇所も緊迫や威圧感としては感じられない。自然の帰結たる盛り上がりなれど、予定不調和な立体をなす音楽こそ藤井郷子の凄いところか。プリペアドを使った一曲では、鈍い青銅の鐘の音からガムランまでを感じさせる、各部が自由に歩行しつつも不思議な対話を繰り広げるものだった。


終演後に田村夏樹氏からベルリンの話を伺ったり、客席も悠雅彦氏をはじめ存じ上げている方も多く、楽しいひとときでした。田村氏曰く、現地でもやはりアキム・カウフマンは凄い!の呼び声高しとのこと。皆さん是非聴いて下さい。


【関連リンク】
http://koh.main.jp/
http://tengoku.in/main.html
http://satokofujii.com/
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# by kfushiya | 2011-12-22 12:26 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)
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↑ centripetal force in centrifugal ways...


Samuel Blaserはスイス生まれ、スカラシップを得てニューヨークへ渡ってこの方、目覚ましい活躍を続けている。現在はベルリンを拠点に活動しているという。ドイツ語圏でトロンボーン、というとNils Wogramが思い出されるが、やはり楽器柄かのAlbert Mangelsdorffと引き合いに出されるのは宿命のようだ。以前Wogramが何かの雑誌で、Mangelsdorffを踏襲しないまでも、やはり彼のようにアコースティックの可能性をとことん追求する方向で行きたい、たとえそれが時代に逆行することであっても、という主旨で語っていたのが印象に残っている。今回Samuel Blaserを初めて聴いて、やはり同じような気概を感じた。まぎれもないヨーロピアンの伝統、ちょっとやそっとでは揺るがぬ頑迷なる構築力である。息の長いスパン、力みなき音のフロウ、余裕たっぷりのインプロ、伝統の良いところだけを残して古臭を抜き去った「吹っ切れ感」。しかしまあ、ドイツ語で管楽器奏者はder Blaeser(ブレーザー)、ウムラウトがないだけで発音はほぼ同じ、吹くために生まれついたような男なのかしらん。

パーソネルは、Marc Ducret(guitar)、Baenz Oester(bass)、Gerald Cleaver(ds)というニューヨーク色の濃いヴェテラン揃い。このクァルテットの名義では”’7th Heaven”(Between the Lines;2008)、”Peace of Old Sky”(Clean Feed;2009)に続いて3作目。『Boundless』はBoudless Suite Part 1~4から成り、各Suiteは13分から17分と十分な長さ。タイトルから、「好き勝手やっているようなフリー・インプロがとりとめなく続いているものか」と安易に想像することなかれ。まず、轟音が渦巻くことはあまりない。4人の奏者はかなり細かいところまで「しっかりと」弾いており、微小なテクスチュアは綿密に息づいている。そうしたムーヴメントが寄せたり返したりするアンバランスの妙が、ある種リズミックで心地良いバランスとなって音楽が四方八方に広がっては全体が底上げされてゆく快感がある。中心は何かという惰性で捉えようとすれば確かに”boundless”に感じるかもしれないが、全体に異様に余韻のある余白が張り詰めている。今さら美学的なことを言うつもりも毛頭ないが、要は気配が肉体に及ぼす効果-----それが絶妙の結びつきで骨が1本1本外されるように実感されてゆく。アコースティック・レヴェルにおいては百戦錬磨の4人が、音の抽象性を高めて独特のアンビエントを造り出してゆく、その静かなグルーヴ。

個別に見てゆけば、Marc Ducretのギターがエレクトリックである分だけ、やはり異化的に目立つ。Blaserのふくよかなトロンボーンと小刻みに絡むあたりも気持ちが良い。Gerald Cleaverのドラムは、シンバルなどの金属音、とくに弱音部が効く。先鋭的ながらも全体を包み込むような柔らかな響きを同時にもっており、時折現代音楽にも通じる遠近感をも醸し出している。遠近感----といえば全員がそれに長けているともいえ、引き際と出際の自然さはほとんど肉体から絞り出される呼吸そのもののよう (楽器の種類如何によらず)。4つの組曲(suite)を相互に繋ぐ各曲のエンディングも、こうした肉感的なインターアクションで執りおこなわれる。というか、このエンディング部分がミソである。サブリミナルのように意識裡に堆積し、聴き終えてしばらくしてからこの部分だけ蘇ってきたりする。Baenz Oesterの潜伏力、ここぞという時に顔を出すまでのスタミナの持続力も聴きもの。押し、ではなく溜めの極意の絶好の例。

Samuel Blaserの広範なる音楽像は、むしろ出された音を超えたところに濃厚に立ち現れているような感慨をもつ。それぞれの音は、巨大な実体の尻尾をつかむためのヒントであり、要所でジャンクション・ポイントのみを提示するコンポジションにはいぶし銀の貫禄すら漂う。まだ30歳を迎えたばかりだというから恐れ入る。この老成ぶりは何だろう。

【関連リンク】
http://www.hathut.com/home.html
http://www.samuelblaser.com/
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# by kfushiya | 2011-11-22 12:30 | ベルリン/音楽 | Comments(0)
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↑名古屋在住のピアノ調律師の方の尽力で実現したコンサート。会場のsalon tesseraはミュージシャンへのリスペクトと暖かみに満ちた雰囲気に。


コンサートの前々日にあったとある会合で食べた生焼けの鶏肉にアタり、2日間胃の調子が悪かったのだが、コンサートの素晴らしさでそれも吹き飛んだ感じだ。迅速なライヴ・ヴィデオの撮影で知られる木野英彦氏にひょんなことからチケットをいただいたおかげで、稀有なライヴが体験できた(木野さん、ありがとうございました)。というか、忘れかけていた器楽の醍醐味、の絶好のショーケースであった。ブラジル人ピアニストのAndre Mehmari(アンドレ・メマーリ)とイタリアはペルージャ在住のクラリネット奏者・Gabrielle Mirabassi(ガブリエッレ・ミラバッシ)によるアコースティック・デュオで、ジャズでもワールドでも現代音楽でもない不思議な世界。ひとこと、「よい音楽」である。聴き手 (小難しい「聴き方論」云々を捏ねている方々は除外) を縛らずに、有無を言わさずに心地よいトランスの世界へと連れていってくれる。全方位的な音楽。例えば彼らの音楽をブラジル・ジャズとかイタリア・ジャズとかいった国別インデックスへ押し込めようとすると、その無意味さを音によって跳ね返される。ミュージシャン同志の信頼関係は、互いの音への感応によって繋がっているわけで、国境とか文化の差異、言語レヴェルをはるかに凌駕した次元であるとおもう。それを聴き手がインターナショナリズムなどという単語で括るのも、それこそドメスティックな感性であろう。メマーリは2度目の来日だというが、ミラバッシは初来日(弟のピアニストのジョヴァンニは何度も来日しているという)。演奏が始まってまず釘づけにされるのが、ミラバッシの独特な身体技法(?)である。ほとんどダンスしているがごとき翻り方で、それにともないクラリネットのベルの部分もかなりの角度で上方へ反り返ったりするのだが、それが全く不自然にならずに自然にキマっているのだから恐れ入る。通常の楽器の構えという固定観念で見れば、まさしく「不適切なフォーム」であること極まりないのであろうが、重要なのは結果と効果であって、あのステージを体験すればすべてが納得できるであろう。ミラバッシについての情報は私は昨晩のステージ以外全く持ちあわせていないが(恥ずかしながら)、彼の豊かな演奏から感じるのが「(他はどうであれ)自分にとって自然であると思えるスタンスを突き詰めてゆけば、表現は自ずと多彩になる」といったある種の原理である。求道的なストイシズムと、その結果のしがらみから自由になったユーモア----蓮の花のような、花果同時の美しさがあると思えるのは勘違いか。とりあえず、「イタリア人らしい演劇的なパフォーマンス」などという、ともすれば被せられ兼ねない安易なレッテルとは一味もふた味も異なったレヴェルの現象である。

一見ミラバッシと対照的なのがメマーリのピアノで、それこそどのジャンルをやらせても応用が利くであろう無駄のない筋肉使いの、正統なフォームである。見事に梃子の原理だけで音が動いてゆく。私はクラシックを含めて相当数のピアニストの演奏を聴いてきたが、メマーリのような音色をもつピアニストは本当に一握りだとおもう。元来ピアノがもつ音域はオーケストレーションにも例えられるが、それほどに広域な音色のレンジを有するピアニストは稀であり、どこかで弾く人のジェンダー的なものが反映されているのだが、メマーリのピアノは両性具有に近い。これだけは天賦の才だ。色彩やニュアンスが多彩ながらも、どこか一点に依拠することのない俊敏さが絶えず漂っている(霧のようなつかみどころのない魅力)。

それぞれに「もっとも自然な状態」を突き詰めたふたりの音が、呼応しあい空気と混ざりあって、得もいわれぬ香気を放つ世界に魅了された。シンプルに感応し合おうという、狡猾な駆け引きとは無縁の世界。音を発していない瞬間でも、相手の音の登場人物として、常に互いの上に乗っかっている。ピアノとクラが音質が一枚岩すれすれになるまでユニゾンで並行したり、タッピングと循環奏法をぎりぎりのピアニッシモで重奏したりと、会場のエコー効果を確かめ、慈しむようなアプローチにも研ぎ澄まされた感性が感じられた。演奏されたのはEGEAから2010年に発売された『Miramari』に収録されたものが中心で、日本の唱歌「ふるさと」などもプログラムにさらりと溶け込ませていた。このデュオの第2作目も構想中というので今から楽しみだ。
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# by kfushiya | 2011-10-22 15:27 | 音楽と日々雑感 | Comments(2)
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↑風を孕む楽器の運動総体


9月末からクラシックを中心としたコンサートが連続しており、毎日どこかへ出掛けては夜半に戻る日々で、いつ何があったのか覚えていないほど。それ以外でも多忙が重なり、寝しなには本を開くも知らずに爆睡していることが多く、なんだかなあ、歳だわもう、という状態。日本語ばかり書いているので、外国語の勘が全くもって鈍磨しており、せめてフェイスブックぐらいはな、と多国語で書き散らしてはいるけれど。ところで音楽を書く人の国別専門主義(日本の一大特徴)は私は嫌いだが、そのスタンスを取るのならば、当たり前のように現地語ぐらいには熟達していてほしいとおもうが、まあどうでもいいや。

前からSimon Nabatov(サイモン・ナバトフ)のファンだったが、Nils Wogram経由でレヴューを書いたのもあって、フェイスブックでお友達になった。ジャンルに拠らず音楽の天才にはよくあるように、御多分にもれず彼もポリグロットで、チャットは主にポルトガル語を用いている。ロシア人と日本人がポルトガル語を共通語にするのも何か面白い。今回、ニューヨーク・ベースのベーシスト、Pascal Niggenkemper(パスカル・ニッゲンケンパー)名義のトリオ作品がリトアニアのNoBusiness Recordから出た。作品云々の前にまずこのレーベルがとても素敵だ。Danas Mikailionisが代表とプロデューサを務めるが、アルバムは大半がCDとLPの二本立てで制作されている。レーベル名を見ても、儲けを度外視したクオリティ追求の気概を感じる。2009年にはAll About JazzのBest100 Labelにも選出された。

それで、この『Upcoming Hurricaine』は、前出のNiggenkemperを筆頭にSimon Nabatov(p)、Gerald Cleaver(dr)というヴェテランが脇を固めるトリオである。Stuart Broomerによるライナーにもあるように、タイトルにも「風」を感じさせるものが多く、なるほどNiggenkemperのプレイにも羽虫がかさこそと音を立てるごとき木の震えから、ここぞという隙間でのエレクトニクスやアルコの響かせ方など、生のままの楽器の声を、非常に広い音の振幅で堪能できる。三者三様にナチュラルに呼吸しつつ自在に拡張していく様は、さながら葉脈を見ているよう。緊迫すらが自然の帰結として感じられてしまう。やはり個人的にはナバトフのピアノの音質に惹きつけられる。どんな一音のなかにも呼吸があり、この録音では具体的に何のピアノを用いているかは不明だが(家ではモスクワ時代から100年もののベヒシュタインを愛用していると言っていた)、鍵盤が指に吸いつかれていくような一体感、ごく限られたアーティストだけが具現する、自身の楽器化ではない楽器の自身化を成し遂げていて、感応せずにはおれない音の鳴りである。ビリビリと来るが実にしなやかだ。Cleaverのドラムも然り。Niggenkemperのベースは、決して多弁ではないのだが、音数ではなくニュアンスで魅せるもので、効果音的アプローチから本来のリズム隊へと行きつ戻りつするそのツボが、何だかすごくセンスが良い。変拍子の妙云々以上に、オチの付け方が天性というかとても文学的だ。アルバムを通して、ひじょうにタイトな構成力はすでに自明のものとして無色でそこに在り、自由な飛翔感だけが風通しよく漲る。「ピアノトリオ」というともはやジジババの回顧録と化してしまったような先入観がつきまとうが、そうしたものから見事に逸脱していて未来を感じる。考えてみれば他の編成と比較しても、ピアノトリオは歴史的には浅い形態であるはずなのに、なぜに古色蒼然としたイメージがついてしまったのだろうか。この国だけか。

明日からはペーター・ブロッツマン3Days。とても楽しみだ。体調と相談しながら、ぐだぐだと(www)書く時間の確保を模索している。

【関連リンク】
http://nobusinessrecords.com/NBLP40.php
http://www.nabatov.com/
http://www.turbopascale.de/home.html
http://www.geraldcleaver.com
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# by kfushiya | 2011-10-13 12:30 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)
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↑1.Carnies/2.Dream Logic/3.Marchebrisee/4.Gavia/5.Double Exposure/
6.Pea Head/7. Proliferation/8.Sphericals。※この当時はケルン~アムステルダムベースのバンドだが、現在はMichael Moore以外は全員ベルリンに在住。


おはようございま~す。週初めに小曽根真の端整なモーツァルトのコンチェルトに触れて以降(※JazzTokyoにて近くレヴューします)、連日なんやかんやのイヴェントなりに便乗してアルコールを摂取することが多く、筋肉が弛緩したような状態でめまぐるしく時間ばかりがすぎてゆき(すぐ赤くなるのを欧州人よりよくバカにされたものだが、短期間一緒に住んでいたスウェーデン男に「容易に赤鬼状態になる情けない娘を外国に放置している母親の顔が見たいものだ」とか揶揄されていた。こういうこという奴がノイローゼになって最後はストックホルムより母親が来て収監されていったのには笑えるものがあった)。その間、リスボン時代の懐かしきA君と11年ぶりに再会して(日本の風景が似合わん奴よのう)今さら知った驚愕の事実に大爆笑したり、モザンビークの狂瀾の宴話やらブラジル再訪感動秘話やらで、しばしくそ暑い極東での、地味すぎて鼻で笑うしかない自分の日常から逃避したのでした。瞳孔が開いてゆくあの感覚をもう一度!という感じなんですが。

最近Achim Kaufmannのピアノにどっぷりと嵌まっているが(7/29に新譜も出ます)、気に入りすぎてソラで覚えているもののCD自体は紛失してどこへやら、というオクラ炒り状態だった『Double Exposure』(Leo;2000)を旧知のS氏がロムに焼いて下さり昨日拝受(ジャケまでコピーしてケースに入れていただき感謝)、起き掛けからガンガンかけて幸せな週末です。パーソネルはAchim Kaufmann(p); John Schroeder(g, bass-guitar); John Hollenbeck(ds);Michael Moore(reeds)。ピアニストは頭の良い人が多い、というけれどKaufmannを聴いていると如実にそれが実感されてくる。ピアノの配線の隅までが、作曲するときのペン運びのミクロな跳ねまでが見えるかのよう。複合的なパースペクティヴ。そんなひそやかなニュアンスと、精確なクラリティを保つパリっとした音色とが渾然一体となってえも言われぬ香気として立ち昇るのが、何とも痒いところに手が届く。緻密かつリリカル、秘めやかなりしダイナミズム。

Michael Mooreのクラリネットの素直な音の呻吟に、のっけから小理屈なく素敵だと思うけれど、冒頭の”Carnies”、作曲が単純に素晴らしい。シンプルなるバップ。すがすがしい。ピアノの強力でパーカッシヴなコード押さえがガツガツと身体に響く。音色の透明度と音圧がいい。メロディはクラリネットが主導し、豊麗なピアノがそこにみっしりと肉付けして塗り込まれる。Hollenbeckのクールでハケのよい弾丸ドラムは存分に暴れ、変拍子間のシフトも実に鮮やか。曲全体にファンキーな粘度を付与しているのは本作ではbass-guitarのJohn Schroeder。さすがのマルチ・インストゥルメンタリスト、自分の存在感も確実に際立たせつつも、各プレーヤーの影に回って支えるのが実に巧い。気が利くのだ(考えてみればSchroederは20歳そこそこの時にアムステルダム音楽院のギター科の教師に着任していたというから、もともとアムスにゆかりは深い)。この”Carnies”はタイトルからも推察できるように、ミュージシャンたちの個性を自然に発露させるのにもってこいの「お披露目」的な一曲。「若年期に影響を受けたのはほとんどロックだった」というJohn Schroederの原風景的なものも垣間見えるプレイ。暑苦しい余韻ではなく、純粋にメカニカルな楽しさだけが前面に。終盤のベースラインのスタミナも聴きどころだ。

3曲目、ノイジーなHollenbeckのパーカッションとプリペアドを巧妙に仕組んだピアノの鋭角的なリズム反復で始まる”Marchebrisee”。周縁から悪寒のごとく押し寄せてくる震えとブレ感。湧き上がり下降してはそこに絡んでくる見事なテクのギターのパッセージ。一音一音が連結されつつも底から跳ね付ける弾みと丸み。そんな縺れた糸に高みから高圧的に風を吹きつけるMicheal Mooreのバスクラも素晴らしい。Kaufmannの見通しの聴いたサウンド構築力を見せつけられる。「醒め」効果が増幅すると、あまりに屹立するがゆえ一瞬熱さと紙一重になるのだ。ふとした瞬間に穿たれるピアノの一音がぞっとするほど柔和にして冷酷なのもいい。

6曲目"Pea Head"も掛け値なくかっこいい。この曲でも強力なグルーヴの下地はベース。いまどき良い音楽に関してジャンルとかなんとかいうのも馬鹿馬鹿しいことこの上ないが、非常に卓越したベースラインにして単純に幻惑される。緻密で知的だが泥臭さを微塵も失っていない世界。中盤でメロディの綾としてベースがぬっと表に出るのだが、その綾とりの眼をひっくり返した感じの出方がまたいい。対するMichael Mooreのアルトソロは、いい意味でオーセンティックな「ジャズ」で、艶と掠れの一筆書き。ピアノはパーカッションとメロディの間を行ったり来たりしながら、バップ的な押し出しのよいアタックを繰り返すのだが、絶えずの何かが破裂する瞬間に立ち会っているような印象をこちらに与えながらも、途切れずに一本のメロディの糸が垂れ続けているというかなり入念な魅惑の構図。Michael Mooreはクラリネット、バスクラ、アルト・サックスを吹分けているが、特に「クラリネットってこんないい音が出る楽器なんだ」と認識させる好プレイが一貫。何回聴いても飽きないアルバムである。

また止まらなくなってきたのでこのあたりで失礼します。皆様素敵な週末を!
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# by kfushiya | 2011-07-09 11:23 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)
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↑ミクロの推移が美しい。蚕が糸を紡ぐのをルーペで見るような、局部拡大の充実がある。


先日、家の近くの本屋で団鬼六の本を持ってレジへ行ったところ、純朴そうなアルバイト学生の男の子が密かにしげしげとこちらの顔を見てきた。「このおばさんそういう趣味持ってんのかよ」と目が問うている。ほとんど漫画に近いノリに過ぎないんすけど、こっちは(男友だちに話したら、女ならそういう本はせめて家から離れたとこで買えということだ)。まあ、勝手に軽蔑でもしてくれ。そのくらいでいいのだ。学生のころから百戦錬磨のヤリ手なんて、将来ロクな奴になりませんぞ。などと、よくわからん知識欲のみでひたすら意味不明だった自分の若年時代を思い出しつつ。

執着の対象が何であれ、細部へのマクロ意識はめくるめく美の源泉であったりもするわけで。Achim Kaufmann Trioの2008年作品もしかり。派手な要素は全くない。しかし、ジレながら進む単純な単音の指さばきがみしみしと寄せてくる。音が切れ切れになればなるほど、琴線へ迫りくる。蜘蛛の巣に絡め取られてゆくクリスタルの透明度、不穏に濁りを増してゆくさまが良い。シャドウイングしつつピアノのサウンドにねっとりとした影を落としてゆくJim BlackのドラムとValdi Kolliのベースが絶好のイントロであるブルージーな1.Lijanje。一瞬セロニアス・モンクを彷彿とさせながらも、すれすれのところでヨーロッパ的な心象風景へとすり抜けるピアノ・ソロ、2.のSlow Roundabout。19世紀のベルギーの画家・James Ensor(ジェイムス・アンソール)に想を得たという3.Ensormauqueは、やはり明瞭ではない曳き気味の音色が印象派的に滲みをを醸す。Jim Blackのドラムとリズミックな類似性で噛むところでは、「色彩は強烈でも結果としてボケている」という絵画らしい視覚性を刻む。ダブル・ベースは楽器自体の短所とも受け取れる乾音のはじきを巧妙にサウンドの隙間へ滑りこませる。互いのボディ同志のノイズも含め、ピアノとべースによるみっしりとした凹凸のなかを、綿密にパースの効いた怜悧なドラムが推進してゆく4.Dewy Redman。ピアノの暑苦しくも縺れたタッチはタイトル通り、2006に物故したサックス奏者の音色へのオマージュか。オマージュというかリスペクトは次の5.Misha Antlersへも持ち込まれる。言わずと知れたMisha Mengelbergである。Achim Kaufmannはアムステルダムに長く、メンゲルベルグに指導を受けている(アムスに住んだジャズピアニストで彼の影響を受けない者などいないが)。このあたりで「サウンドの構築性」へ挑むといった、少々紋切型のスタイルが透けて見えなくもない。リズムというストラクチャー、その範囲内で音がいかに作用し合うか、に自然注意は向けられるのだ。ベースの単調なリフレインもサブリミナル効果大。低音のピアノのリフが不穏に舞う6. Scarineでは、右手と左手は全く分離した世界を現出。一見右手が担うアルペジオやメロディが目立つが、実はそれは効果音に過ぎない。ポイントで穿たれるプリペアドのオクターヴ音が、音楽全体にパリッとした糊を効かせる。フィヨルドの微かな地殻変動のごとき水面下の衝突がクールかつ幻想的なピアノ・ソロ。緩急のメリハリも効いたフリー・フォームのトリオ編成のなかで、敢えて控え目なリリシズムを保つことによって音響自体のスライド感を見事に炙り出した7.IMBOと8.DOROBO。ソロ・インプロ部分も押しつけがましさ皆無。シンプルで静謐なピアノのパッセージは、あまりにも自然に立ち昇るが故に、ただ「美しい」という感想と余韻以外持ちえない。ソロ・インプロの貫録としてはそれで充分なのだ。次の9.Blue-BrailedとラストのStanley Parkに至っても、ピアノの透明度は増してくるのだが、抑制の効いたドラムとベースが訥々と語り続けるさまにチェンバー・ミュージック的なアンビエントが光る。伝統的な一方でどこか新しい。地味派手。音量はぐっと抑えられ、練られたコンポジションの屋台骨がすっきりと浮き立つ。こんなに大人しいJim Blackは初めて聴いたが、ずば抜けた瞬発力はどんなに微音でも健在だ。

"Kyrill"とは、2007年初頭に中央ヨーロッパを襲った台風の名称。台風の暴威はどこにも感じられなく、むしろ台風の目の不気味さをつぶさに描いたとでもいおうか。ドイツ・アメリカ・アイスランド、というメンバーの出自のバラエティも、アムステルダムの「唯一の法則、自由のみ」という雰囲気のなかで一旦据え置かれ、霧消している感あり。そうした緩さも音間に潜む。ちなみにこのトリオの新作は7月末に発売される。
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# by kfushiya | 2011-06-22 00:54 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)