【*2015/06】


by kfushiya
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先日偶然訪れる機会のあった千葉在住の某画伯がマイスキーの大ファンでLPがアトリエでも流れていた。そういえば父マイスキーのほうは生で聴いたことがないなあ、と思っていたところへのこの機会。せっかくなので早々に感想をアップする(web時代に則りまして)。昨年、アルメニア生まれの若き鬼才、ラチャ・アヴァネシアンのヴァイオリン聴いた折に相方を務めていたのがリリー・マイスキーで、演奏能力より何よりまずその卓越したパフォーマンス力に感嘆を覚えたものだ。舞台女優に匹敵するような成熟したオーラは生来のものであるといえるだろう。

さて、今回は偉大な父親との父娘デュオ、さぞかし息のあった演奏であろうとは想像がついた。ミッシャほどの大家となれば、やはりコンサートのタイトルはデュオという表記ではなくて「ミッシャ・マイスキーチェロ・リサイタル」となるが、今回もラチャの時と同様、チェロとピアノは分かちがたい不可分なウエイトで終止一貫。プログラムはシューベルトから始まり、ドビュッシー、シューマン、ブリテンで〆るというもの。全体的に楽曲間のみならず楽章間の性格対比がくっきりとした選曲であるが、あまりエスニックではない曲想でのほうがふたりの美点がシンプルに全面へ押し出されていたように思われた。

冒頭のアルペジオーネ・ソナタでは、まだ楽器の鳴りが充分ではなく、少々会場が大きすぎたのではないかと懸念したが、それは徐々に解消されていった。むしろリリー・マイスキーの、あえて音の核心を外堀から埋めていくかのような絶妙な間合いのピアノが、聴き手の想像力を次へ次へと急き立てる。そのピアノの雲をもつかむ、というか、とらえどころのなさは甚だシューベルト的であり、魔性でもある。ミッシャはピッツィカートの部分になるとミュートがかかったようにチェロの声色が一変し、そこで一旦堰き止められたエネルギーが次に本流となって怒涛のごとく流れ出るギア・チェンジの瞬間がみごと。アダージョで聴かせた貫禄たっぷりの叙情性はシンプルかつ至高の音色として聴く者の心をぐさりと抉る。リリーの、微妙なテンポのずらしは音と音との間を幾層にも豊かにするが、逆にソロ・ピアノの場合こういうピアニストは如何なるものだろうかと興味をそそられた(室内楽ピアニストとしてはピカイチである)。

この日の白眉がドビュッシーのチェロ・ソナタ。ピアノの導入部が楽曲全体の雰囲気作りの鍵を握る作品であるが、ここでもリリーのピアノの音色がすこぶる的を得ている。鏡のように硬質で清澄でありながらどこまでも深い音色は、チェロの音の伸びを一層引き立たせる。第2楽章のセレナーデはスパニッシュ・ギターを彷彿とさせる金属質の音造りであるが、チェロから引き出される表情の多様性はかくも豊かかと瞠目する。目をつぶって聴けば、誰もが一瞬ギターと信じて疑わないだろう。フランス音楽特有の香気に、多彩な音色の乱反射がヴェールにくるまれるように響きの次元でふわりとひとつにまとまる姿が特筆もの。

後半のシューマンとブリテンに至っては、楽器自体の鳴りの良さも手伝って、安定した秀演を堪能できた。シューマンの「民謡風5つの小品集」は、クララ・シューマンを想定して作曲された曲だけあって、やはりピアノパートに関心が向いてしまう。夢想的で儚げなニュアンスの演出には前述したように天性のものを感じるリリーだが、若さゆえか揺るがぬ個性というところまでは至っていない。ミッシャのチェロに関しては、シンプルになればなるほど重音で強調されて二重張りにされるメロディライン。聴かせどころをこれでもかと野太く押してくるあたりにいい意味でのスターのふてぶてしさを感じる。朗々と歌ごころが提示されるほどにチェロはベースラインのような役目に回り、それらにピアノが纏わりつき音楽が肉づけされるのだ。阿吽の呼吸の補完関係は、チェロが倍音へ抜けるときもひじょうに自然な空気感を生む。ブリテンでは一転、特殊奏法を駆使した精巧な楽曲造りが奏者ふたりの基礎体力の高さを露わに。豊富な音色のパレットは、乖離と凝集のコントラストも鮮やかなパッションの激しさとも相俟って、ときに視覚的なニュアンスをも生み出していた。第3楽章エレジアでの、骨を削るようなシビアな音圧の運弓、ノイジーなチェロとハープのごときピアノが駆け抜ける第4楽章マルチア、ピッツィカートと連打が生む点描のごときフィナーレのモルト・ベルベトゥオ。ふと目の前に壮大な景色が広がるような錯覚におそわれた(冒頭でふれた画伯をひきつけるのも視聴覚合一のこの眩暈か)。余談だが、女性ではなく男性が前半と後半で衣替えするコンサートも初。自身の魅力とステージ映えを充分に認識しての演出であろう。スター父娘のオーラ溢れる一夜。

«プログラム»
シューベルト;アルペジョーネ・ソナタイ短調D.821
ドビュッシー;チェロ・ソナタニ短調
シューマン;民謡風の5つの小品集op.102
ブリテン;チェロ・ソナタハ長調op.65

*アンコール
鳥の歌(カタルーニャ民謡)〜アルベニス風に(シチェドリン)

«出演»
ミッシャ・マイスキー(チェロ)
リリー・マイスキー(ピアノ)
主催: AMATI
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by kfushiya | 2013-12-04 20:16 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)
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以前フランスのピアニスト、アンリ・バルダ(Henri Barda)のディスクコンサート・レヴューを書いたことがご縁で、ピアニストの秦はるひさんがバルダの伝記『アンリ・バルダ〜神秘のピアニスト』(青柳いづみこ著/白水社刊)を送ってくださったのが一ヶ月ほど前。その間仕事なりなんなりでバタバタしており、ようやく師走も近くなって拝読中だがこれがなかなかおもしろい。バルダの、あの思い切りのよい大胆な解釈の演奏、ユーモアたっぷりのステージングからは想像もつかぬほど、本番前後はなだめようもないくらいナーヴァスになるのだそうだ。その一筋縄ではいかぬ気難しい性格をなだめすかしつつ時にその才能に心の底から感嘆しつつ、いかに一冊の伝記が出来上がっていったかが、彼の人生とともにそのままビシバシと伝わってくる青柳氏の筆致にあいも変わらず感服。バルダの演奏にはじめて触れたときの衝撃は忘れられない。ジャズ・ピアニストに通底するようなグルーヴやダイナミズムが、今日びのその筋の方々よりはるかに濃厚に根源から湧き出ていたからである。並のジャズ・ピアニストを聴くよりよほどスリリング、というのが正直なところだ。大筋の自分の感想と、著者の青柳氏の評とが当たらずしも遠からずのところが多かったので、さほど頓珍漢でもなかったのだな、とほっと胸を撫でおろしたり。しかしながら、秦はるひ氏がその実現に向けて奔走したという2008年のアルバム『紀尾井ホールライヴ』、伝記のなかでも触れられているとおり、フランス本国でもその評はショパンについてばかりで、併録されているブラームスの演奏については書いてないものばかりだ、という青柳氏の見解にはぎくり。自分も、ついグランド・スタイル的なショパンにばかり気をとられてしまったな、と。

さておいて、アンリ・バルダの凄さを言葉であらわそうとすると、どうしてもすり抜けてしまうものがあるが、その捉えどころのない壮絶さを巧く絡めとった表現に著書も大詰めになって出会った。以下引用させていただくと;

・・・もしかしたら、バルダの自虐趣味こそが彼をピュアなまま保たせているのかもしれない、と。聴衆を感動させたことを認識させてしまったら、次回からは感動を演出するようにもなるだろう。こうすれば人は感動してくれる・・・ノウハウを知ってしまうと、無意識のうちにセルフコピーを始める。そのくらいなら、客席の感動を察知しないほうほうがよほどいい。・・・(同著 p.238)


音と音との間がもっとも重要であるとするバルダの音楽、"音の隙間を筋肉で埋める" バレエのピアニストとしての経験が小さくはない位置をしめるというその経歴。彼の音楽が突き付ける、ジャンル云々を超えた一回性の衝撃(単純に即興という単語では括れない)の鍵がこのあたりにあるような気がした。
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by kfushiya | 2013-12-01 20:03 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)