【*2015/06】


by kfushiya
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↑名古屋在住のピアノ調律師の方の尽力で実現したコンサート。会場のsalon tesseraはミュージシャンへのリスペクトと暖かみに満ちた雰囲気に。


コンサートの前々日にあったとある会合で食べた生焼けの鶏肉にアタり、2日間胃の調子が悪かったのだが、コンサートの素晴らしさでそれも吹き飛んだ感じだ。迅速なライヴ・ヴィデオの撮影で知られる木野英彦氏にひょんなことからチケットをいただいたおかげで、稀有なライヴが体験できた(木野さん、ありがとうございました)。というか、忘れかけていた器楽の醍醐味、の絶好のショーケースであった。ブラジル人ピアニストのAndre Mehmari(アンドレ・メマーリ)とイタリアはペルージャ在住のクラリネット奏者・Gabrielle Mirabassi(ガブリエッレ・ミラバッシ)によるアコースティック・デュオで、ジャズでもワールドでも現代音楽でもない不思議な世界。ひとこと、「よい音楽」である。聴き手 (小難しい「聴き方論」云々を捏ねている方々は除外) を縛らずに、有無を言わさずに心地よいトランスの世界へと連れていってくれる。全方位的な音楽。例えば彼らの音楽をブラジル・ジャズとかイタリア・ジャズとかいった国別インデックスへ押し込めようとすると、その無意味さを音によって跳ね返される。ミュージシャン同志の信頼関係は、互いの音への感応によって繋がっているわけで、国境とか文化の差異、言語レヴェルをはるかに凌駕した次元であるとおもう。それを聴き手がインターナショナリズムなどという単語で括るのも、それこそドメスティックな感性であろう。メマーリは2度目の来日だというが、ミラバッシは初来日(弟のピアニストのジョヴァンニは何度も来日しているという)。演奏が始まってまず釘づけにされるのが、ミラバッシの独特な身体技法(?)である。ほとんどダンスしているがごとき翻り方で、それにともないクラリネットのベルの部分もかなりの角度で上方へ反り返ったりするのだが、それが全く不自然にならずに自然にキマっているのだから恐れ入る。通常の楽器の構えという固定観念で見れば、まさしく「不適切なフォーム」であること極まりないのであろうが、重要なのは結果と効果であって、あのステージを体験すればすべてが納得できるであろう。ミラバッシについての情報は私は昨晩のステージ以外全く持ちあわせていないが(恥ずかしながら)、彼の豊かな演奏から感じるのが「(他はどうであれ)自分にとって自然であると思えるスタンスを突き詰めてゆけば、表現は自ずと多彩になる」といったある種の原理である。求道的なストイシズムと、その結果のしがらみから自由になったユーモア----蓮の花のような、花果同時の美しさがあると思えるのは勘違いか。とりあえず、「イタリア人らしい演劇的なパフォーマンス」などという、ともすれば被せられ兼ねない安易なレッテルとは一味もふた味も異なったレヴェルの現象である。

一見ミラバッシと対照的なのがメマーリのピアノで、それこそどのジャンルをやらせても応用が利くであろう無駄のない筋肉使いの、正統なフォームである。見事に梃子の原理だけで音が動いてゆく。私はクラシックを含めて相当数のピアニストの演奏を聴いてきたが、メマーリのような音色をもつピアニストは本当に一握りだとおもう。元来ピアノがもつ音域はオーケストレーションにも例えられるが、それほどに広域な音色のレンジを有するピアニストは稀であり、どこかで弾く人のジェンダー的なものが反映されているのだが、メマーリのピアノは両性具有に近い。これだけは天賦の才だ。色彩やニュアンスが多彩ながらも、どこか一点に依拠することのない俊敏さが絶えず漂っている(霧のようなつかみどころのない魅力)。

それぞれに「もっとも自然な状態」を突き詰めたふたりの音が、呼応しあい空気と混ざりあって、得もいわれぬ香気を放つ世界に魅了された。シンプルに感応し合おうという、狡猾な駆け引きとは無縁の世界。音を発していない瞬間でも、相手の音の登場人物として、常に互いの上に乗っかっている。ピアノとクラが音質が一枚岩すれすれになるまでユニゾンで並行したり、タッピングと循環奏法をぎりぎりのピアニッシモで重奏したりと、会場のエコー効果を確かめ、慈しむようなアプローチにも研ぎ澄まされた感性が感じられた。演奏されたのはEGEAから2010年に発売された『Miramari』に収録されたものが中心で、日本の唱歌「ふるさと」などもプログラムにさらりと溶け込ませていた。このデュオの第2作目も構想中というので今から楽しみだ。
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by kfushiya | 2011-10-22 15:27 | 音楽と日々雑感 | Comments(2)
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↑風を孕む楽器の運動総体


9月末からクラシックを中心としたコンサートが連続しており、毎日どこかへ出掛けては夜半に戻る日々で、いつ何があったのか覚えていないほど。それ以外でも多忙が重なり、寝しなには本を開くも知らずに爆睡していることが多く、なんだかなあ、歳だわもう、という状態。日本語ばかり書いているので、外国語の勘が全くもって鈍磨しており、せめてフェイスブックぐらいはな、と多国語で書き散らしてはいるけれど。ところで音楽を書く人の国別専門主義(日本の一大特徴)は私は嫌いだが、そのスタンスを取るのならば、当たり前のように現地語ぐらいには熟達していてほしいとおもうが、まあどうでもいいや。

前からSimon Nabatov(サイモン・ナバトフ)のファンだったが、Nils Wogram経由でレヴューを書いたのもあって、フェイスブックでお友達になった。ジャンルに拠らず音楽の天才にはよくあるように、御多分にもれず彼もポリグロットで、チャットは主にポルトガル語を用いている。ロシア人と日本人がポルトガル語を共通語にするのも何か面白い。今回、ニューヨーク・ベースのベーシスト、Pascal Niggenkemper(パスカル・ニッゲンケンパー)名義のトリオ作品がリトアニアのNoBusiness Recordから出た。作品云々の前にまずこのレーベルがとても素敵だ。Danas Mikailionisが代表とプロデューサを務めるが、アルバムは大半がCDとLPの二本立てで制作されている。レーベル名を見ても、儲けを度外視したクオリティ追求の気概を感じる。2009年にはAll About JazzのBest100 Labelにも選出された。

それで、この『Upcoming Hurricaine』は、前出のNiggenkemperを筆頭にSimon Nabatov(p)、Gerald Cleaver(dr)というヴェテランが脇を固めるトリオである。Stuart Broomerによるライナーにもあるように、タイトルにも「風」を感じさせるものが多く、なるほどNiggenkemperのプレイにも羽虫がかさこそと音を立てるごとき木の震えから、ここぞという隙間でのエレクトニクスやアルコの響かせ方など、生のままの楽器の声を、非常に広い音の振幅で堪能できる。三者三様にナチュラルに呼吸しつつ自在に拡張していく様は、さながら葉脈を見ているよう。緊迫すらが自然の帰結として感じられてしまう。やはり個人的にはナバトフのピアノの音質に惹きつけられる。どんな一音のなかにも呼吸があり、この録音では具体的に何のピアノを用いているかは不明だが(家ではモスクワ時代から100年もののベヒシュタインを愛用していると言っていた)、鍵盤が指に吸いつかれていくような一体感、ごく限られたアーティストだけが具現する、自身の楽器化ではない楽器の自身化を成し遂げていて、感応せずにはおれない音の鳴りである。ビリビリと来るが実にしなやかだ。Cleaverのドラムも然り。Niggenkemperのベースは、決して多弁ではないのだが、音数ではなくニュアンスで魅せるもので、効果音的アプローチから本来のリズム隊へと行きつ戻りつするそのツボが、何だかすごくセンスが良い。変拍子の妙云々以上に、オチの付け方が天性というかとても文学的だ。アルバムを通して、ひじょうにタイトな構成力はすでに自明のものとして無色でそこに在り、自由な飛翔感だけが風通しよく漲る。「ピアノトリオ」というともはやジジババの回顧録と化してしまったような先入観がつきまとうが、そうしたものから見事に逸脱していて未来を感じる。考えてみれば他の編成と比較しても、ピアノトリオは歴史的には浅い形態であるはずなのに、なぜに古色蒼然としたイメージがついてしまったのだろうか。この国だけか。

明日からはペーター・ブロッツマン3Days。とても楽しみだ。体調と相談しながら、ぐだぐだと(www)書く時間の確保を模索している。

【関連リンク】
http://nobusinessrecords.com/NBLP40.php
http://www.nabatov.com/
http://www.turbopascale.de/home.html
http://www.geraldcleaver.com
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by kfushiya | 2011-10-13 12:30 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)