【*2015/06】


by kfushiya
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↑Julia Huelsmann Trio 『Imprint』(ECM)。国内盤は3/29発売とか


今日も朝から池袋へ行っていたが、先週に比べたら大分人通りも多くてにぎわいを見せていたように思う。しかしまあ、様々な国籍の外国人の方とお話しして、そのキャラの濃さ(というか日本以外ではこれがごくフツーなのだけれど)にこちらも接していて飽きなかった。連日の放射能騒ぎで外国人は皆祖国へ引き返しているらしいが、それでも残っている方々は逞しかったなあ。俳優だというコスタリカ人のおっさんはひっきりなしに喋って"pura vida"を繰り返していたし(いつもポジティヴにピュアに!どうせなら人生は楽しく!ということらしい)、大使館ごと関西へ移転し「都内3000人もいたドイツ人はもう1000人しか残ってない、これで俺の仕事が増える、ラッキ!」と語っていたドイツ人、「みんな逃げ帰ったけど、被災地ならともかく東京にいてまですぐに逃げるような奴はどこ行ってもダメだ。運命だと思えばいいのに」と冷静な中国人夫妻等、なんだか外部の喧噪が別世界のように思えるような瞬間も。帰りは数件の個人商店を通りかかり、野菜も米も卵もフツーに売られている様子を見て、なんでスーパーとコンビニだけであんな嵐のような状況に陥っているのやらと思ってしまった。今後はスーパーなんか止めて個人商店で上手に必要な分だけ買い物するべ、と身に染みる。今日一緒だったマレー語とインドネシア語の通訳の女性(この日は英語で参加)も「いやー、リュックしょって両手にトイレットペーパー握りしめたオバハンに、スーパーで『おい、そこどけ!』とかどやされて二の句が継げなかったね」と都内の浅ましい現状に呆れていた。

地震前に購入していて結局そのままになっていたJulia Huelsmann Trio(ユリア・ヒュルスマン・トリオ)の新作『Imprint』を家でかける。このところ音楽を聴く気も失せがちだったが、山形に実家のある学生時代の友だちが車で私の実家まで応援にいってくれるという連絡をくれて、すこしほっとしたのだ。Julia Huelsmann(ユリア・ヒュルスマン)といえば、7~8年前にACTから発売されて大当たりを取った『Scattering Poem』が即座に思い浮かぶ。Rebekka Bakkenの、ねっとりと纏わりつくが確かな芯を感じさせるハスキーなヴォーカルと、ユリア・ヒュルスマンの、控え目で清楚でありつつもなかなかに練りこまれた複雑なリズム構造が印象的なアルバムだ。「ピアニストは頭のいい人が多い」とよく言われるが、ユリア・ヒュルスマンのとりわけコンポーザーとしての知性と洗練された感性が如実に顕われた作品だといえるだろう。これはライブでも実感したことだ。RebekkaのほかにもJudy Niemack(ジュディ・ニーマック)などヴォーカルを迎えてのプロジェクトが多いようだったが、トリオとしてのコアがしっかりしているからこそ、タイプの異なる様々なヴォーカルが入ってもうまい立ち回りが可能であるのは言わずもがな。一見、背後に回って引き立て役に徹しているようでいて、人々の印象に刻まれるのはユリア節としてのフィット感であるという。ユリア・ヒュルスマンと三位一体をなすのは、彼女のパートナーでもあるMarc Muellbauer(マーク・ムエルバウアー:db)、Heinrich Koebbering(ハインリヒ・ケッベリンク:ds)というベルリン・シーンでは連夜ジャズクラブでお馴染みの第一線。Marc Muellbauerは、派手さはないがベルリンのミュージシャンを集めてのビッグバンドを率いたりと、抜群のサポート力を持つベーシスト。Heinrich KoebberingはAki Takase周辺のバンドでも耳にしたことがある人も多いだろう。多分に個人的な印象になってしまうが、ユリア・ヒュルスマンの名前で浮かんでくるのがベルリンの雪の風景であり(冬にザヴィニー・プラッツのA-Traneで数回聴いたので)、その雪のごとく清澄でひんやりとしていながらも跡形もなくふっと消えてしまう、引き際のセンスの良いピアノの音色である。どちらかというと旧東側のアナーキーさよりも、旧西側のスノッブな地区でひっそりと息づいているのが似合うような、そういった意味でのローカル臭を残した上品さであったのだ。それ以来久々に聴くユリア・ヒュルスマン、さて如何に?と興味津々だったが、半分は予想通り。まあ、ECMだからしゃあないが、何か上品になって臭みが抜けたという感じ。ジャケット写真を見てずいぶん垢抜けたな、とは思ったけれど。

もともと、この『Imprint』のジャケットに示唆されるずっと前から、ユリア・ヒュルスマン・トリオのサウンドの特徴は、透かし見るかのような音の融和状態であり三者の音の平等なる共存である(にじみ系、という分類も安易なようでイマイチ)。それらが聴き手の印象に「無足跡という型を残す」などという陳腐な解釈にも持っていきたくないが、なるほど聴いてからしばらくして後に脳裏からちょろっと湧き出してくる。印象の濃い音楽とはいえないが、深層にはきちっと浸透しているのだな、と。曲は大体4~7分のものが12曲。そのうち7曲がヒュルスマンによる作曲。くどいようだがタイトルからも類推できるように、シンプルなメロディを部分的に反復する手法が全体に散りばめられている。夫婦だけあって、ムエルバウアーとヒュルスマンの息はぴったりと合っている。少ない音数とメロディにいかに肉厚に、馥郁たる匂いを持たせるか、という点において成熟を感じさせる。特筆したいのがケッベリンクのドラムス。非常に繊細でしなやか、かゆいところに手が届く。音量も小さく、低音はほとんど用いない。ピアノとベースの隙間の、気孔という気孔から侵入することにより音楽全体を包容している。自身の作曲である"Storm in Teacup"、"Zahlen Bitte"の2曲で見せる内省的な静けさに、メロディー・メーカーとしての卓越したセンスも。アルバムの前半はリズム隊が低音を控えた、ピアノの感情の際を撫ぜるようなメロディが際立つような進行。半ばより、部分的にバスドラやベースのフィンガーピッキングがすとん、と意識を下部へ引っ張るように立ち現われ、秘かやな物語性を生むのに成功している。ただ全体として、重い暗雲が垂れこめているような重圧感が一貫して支配する。そういったモノトーンの趣がアルバムとしての一貫性、というか筋なのだろうか。少々美学偏重のような気がしないでもない。

『Scattering Poem』が出たときに、地元ベルリンの雑誌インタヴューで「たとえばニューヨークなんかに一定期間住むことを、もちろんジャズミュージシャンとして考えないでもない。でも、ああいう常に150%くらい放出するのが当たり前のような街には、自分は馴染めないだろう。ドイツにいれば自分のペースを守れるが、逆にそれはミュージシャンとして危険だということも自覚している」みたいなことを語っていたのが印象に残っている。逆にそういうローカル臭さがユリア・ヒュルスマンの個性の一部だし、思慮深くも時に大胆なピアニズムの発露だったと思うのだが。もちろんそれは新作でも健在だけれども、グローバルだけれども洗練されすぎる方向には行ってほしくはないなあ、と思ってしまう(年齢的な意識の変化もあるのかもしれませんが)。
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by kfushiya | 2011-03-19 20:33 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)
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↑銀座の街猫


向かいの寺に集うすずめのちゅんちゅん声で目が覚めたが、なぜか思い出したこともない田舎の小学校時代の記憶が蘇った。人の名前に節をつけて歌にするのがクラスで流行っていて、光一君という子の歌の歌詞が「こうなったらもう一歳~♪」とかいうもので最も執拗に復唱されていた(何でだろ?)。まだ一歳、ではなく「もう一歳」というあたりが期せずして詩的だ。そういえば絶壁の教師のあだ名がエベレストだったし、髪を中途半端に伸ばして真ん中分けにしている男の子は「前葉体」と呼ばれていた。子供というのは理由なく情け容赦ないのう。今の時代ならば「いじめ」の部類に入れられてモンスター・ペアレントが乗り込んできかねない惨状だった、我が世代の地方の公立学校。それにしても、なぜすずめのちゅんちゅん声でこんなことを思い出したのだろうか。何に誘発されるのか、記憶とは恐ろしい。『記憶』といえば、近藤等則とDJ KRUSHの名作があるが、そのKRUSHを久方ぶりに来週頭に聴けそうだ。ベルリンで7~8年前に聴いて以来なので楽しみである。

さておき、以下にまだ若いながら素晴らしい才能のピアニスト、諸戸詩乃さんのリサイタル評の一部を。会場では、諸戸さんを高く評価しておられる谷川俊太郎さんのお姿も拝見しました。


■諸戸詩乃ピアノ・リサイタル
2011年3月1日(火)@東京・浜離宮朝日ホール

《プログラム》
モーツァルト:ソナタ第12番ヘ長調K332
シューベルト:ピアノソナタ第13番イ長調op.120, D.664
<休憩>
シューベルト:4つの即興曲op.90, D.899
リスト:『巡礼の年』第3年 S.163より
第2曲「エステ荘の糸杉に寄せて~哀歌」
    第4曲「エステ荘の噴水」
*アンコール
シューベルト:楽興の時第6番


2003年よりウィーンに居を定める諸戸詩乃は弱冠18歳、この日が日本での正式なリサイタル・デビューとなる。名古屋に生まれ4歳よりピアノを始め、10歳でウィーンに渡ってからは名教師エリザベート・ドヴォラック=ヴァイスハールに師事。15歳のとき史上最年少でウィーン国立音楽大学へ飛び級入学。ピアノ教育界の世界的権威であるハンス・ライグラフや、ヤン・イラチェック・フォン・アルニンにも薫陶を受けている。ウィーンではウィーン芸術週間に招聘されるなど、順調に音楽活動を続けているという。日本においては2007年に堤俊作指揮・ロイヤルチェンバーオーケストラと共演したほか、2009年にはカメラータ・トウキョゥからデビュー・アルバムをリリース、2011年2月にもシューベルトの新譜を出したばかりである。

清廉で、泉のように湧き出る音楽性。特筆すべきは音色の美しさである。太くクリアな芯を持ち、その周囲は甘やかな丸みで包まれている。純度の高いクリスタルのような響きを放つ一方で、鋭角的になりすぎない優美さをも併せ持つ。打鍵はいかにもウィーン流らしく、かっちりと深く降ろされる。プログラム全体を通して驚くほど精確だが、それが機械的には決して響かない。空気のように周囲に漂う掴みどころのない情緒、それが音楽の本質であるならば、見事に本質そのままのピアニストであるといえるだろう。その音楽は外界との間にへだたりを全く感じさせない。あまりにも自然に風土や情景、作曲家が生きていた時代背景がゆらりと現前する。極めて高い集中力によって到達しうる珠玉の世界ではあるのだが、水のように絶えず流れている澱(よど)みのなさで聴き手を包む。

冒頭に奏されたモーツァルトのソナタ。単音の珠がころころと転がるさまが印象的な作品だが、諸戸が持つ音楽性と音色の美質を堪能するにはうってつけの選曲。単音がとりわけ美しいピアニストであるだけに、シンプルな旋律のラインが伴奏部のあわいを縫って立ち現れるとき、ぱっと灯がともされるような華やかな衝撃をもたらす。叙情的でなめらかな伴奏部にハイライトの効いた単音が織り込まれるさまは、モーツァルト特有の安定感に不足すると捉えられかねない反面、儚さや移ろいといった成熟した側面をも照らしだす。同時にその凹凸感は、作曲された当時の未完の楽器状態への想像力も掻き立てる。たとえば一音一音をフォルテでくっきりと際立たせるようなマルカート的な打鍵は、ピアノのハンマー部分を意識させる。靄(もや)のなかから立ち現れ、綿菓子のように空気に溶けてゆくような、入(い)りと抜けの良いピアノ。音色の色彩は極めて豊富なだけに、奏者の成熟とともにさらなる陰翳が加味される時が待たれる。

呼吸することがそのまま音楽であるかのような諸戸のピアニズムとシューベルトは好相性のようである。ロマン派の作曲家であるがゆえ、一層制約から自由に、のびやかになっていると見受けられた。ベーゼンドルファーの鳴りも曲を追うごとに良くなっていく。通常、ロマン派の表現というと激情をそのままぶつけるアプローチが多いなか、諸戸の演奏はそういった急激なエネルギーのほとばしりとは趣を異にする。パッセージが低音部から高音部へ移行するときの自然に気分が高揚する部分でも、ことさらにクレッシェンドされることはない。むしろパッセージの基点となる音を中心として大きく孤を描くような、息の長いフレージング。基点がしっかりと鳴らされ、そこから響きは同心円状に広がってゆく。テクニック的にも無駄のない脱力がなされているようだ。そうした呼吸や身体コンディションと順応しきったナチュラルさは、ともすれば聴き手が期待する盛り上がりからすり抜けてしまい、少々肩すかしを食ったような気分になる人はいるかもしれない(とくに即興曲D90-2など)。しかし、シューベルトの醍醐味でもある、求心的に音楽が攻めてくるのではなく、気が付いたら周囲に音楽が満ち溢れていた、という「やわらかな音の共生」の世界は見事に具現していたといえるだろう。・・・・・・


続きは次回更新jazztokyoにて。林喜代種さんの素敵な写真が入ります。
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by kfushiya | 2011-03-05 18:44 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)