【*2015/06】


by kfushiya
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カテゴリ:ベルリン/音楽( 3 )

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↑ centripetal force in centrifugal ways...


Samuel Blaserはスイス生まれ、スカラシップを得てニューヨークへ渡ってこの方、目覚ましい活躍を続けている。現在はベルリンを拠点に活動しているという。ドイツ語圏でトロンボーン、というとNils Wogramが思い出されるが、やはり楽器柄かのAlbert Mangelsdorffと引き合いに出されるのは宿命のようだ。以前Wogramが何かの雑誌で、Mangelsdorffを踏襲しないまでも、やはり彼のようにアコースティックの可能性をとことん追求する方向で行きたい、たとえそれが時代に逆行することであっても、という主旨で語っていたのが印象に残っている。今回Samuel Blaserを初めて聴いて、やはり同じような気概を感じた。まぎれもないヨーロピアンの伝統、ちょっとやそっとでは揺るがぬ頑迷なる構築力である。息の長いスパン、力みなき音のフロウ、余裕たっぷりのインプロ、伝統の良いところだけを残して古臭を抜き去った「吹っ切れ感」。しかしまあ、ドイツ語で管楽器奏者はder Blaeser(ブレーザー)、ウムラウトがないだけで発音はほぼ同じ、吹くために生まれついたような男なのかしらん。

パーソネルは、Marc Ducret(guitar)、Baenz Oester(bass)、Gerald Cleaver(ds)というニューヨーク色の濃いヴェテラン揃い。このクァルテットの名義では”’7th Heaven”(Between the Lines;2008)、”Peace of Old Sky”(Clean Feed;2009)に続いて3作目。『Boundless』はBoudless Suite Part 1~4から成り、各Suiteは13分から17分と十分な長さ。タイトルから、「好き勝手やっているようなフリー・インプロがとりとめなく続いているものか」と安易に想像することなかれ。まず、轟音が渦巻くことはあまりない。4人の奏者はかなり細かいところまで「しっかりと」弾いており、微小なテクスチュアは綿密に息づいている。そうしたムーヴメントが寄せたり返したりするアンバランスの妙が、ある種リズミックで心地良いバランスとなって音楽が四方八方に広がっては全体が底上げされてゆく快感がある。中心は何かという惰性で捉えようとすれば確かに”boundless”に感じるかもしれないが、全体に異様に余韻のある余白が張り詰めている。今さら美学的なことを言うつもりも毛頭ないが、要は気配が肉体に及ぼす効果-----それが絶妙の結びつきで骨が1本1本外されるように実感されてゆく。アコースティック・レヴェルにおいては百戦錬磨の4人が、音の抽象性を高めて独特のアンビエントを造り出してゆく、その静かなグルーヴ。

個別に見てゆけば、Marc Ducretのギターがエレクトリックである分だけ、やはり異化的に目立つ。Blaserのふくよかなトロンボーンと小刻みに絡むあたりも気持ちが良い。Gerald Cleaverのドラムは、シンバルなどの金属音、とくに弱音部が効く。先鋭的ながらも全体を包み込むような柔らかな響きを同時にもっており、時折現代音楽にも通じる遠近感をも醸し出している。遠近感----といえば全員がそれに長けているともいえ、引き際と出際の自然さはほとんど肉体から絞り出される呼吸そのもののよう (楽器の種類如何によらず)。4つの組曲(suite)を相互に繋ぐ各曲のエンディングも、こうした肉感的なインターアクションで執りおこなわれる。というか、このエンディング部分がミソである。サブリミナルのように意識裡に堆積し、聴き終えてしばらくしてからこの部分だけ蘇ってきたりする。Baenz Oesterの潜伏力、ここぞという時に顔を出すまでのスタミナの持続力も聴きもの。押し、ではなく溜めの極意の絶好の例。

Samuel Blaserの広範なる音楽像は、むしろ出された音を超えたところに濃厚に立ち現れているような感慨をもつ。それぞれの音は、巨大な実体の尻尾をつかむためのヒントであり、要所でジャンクション・ポイントのみを提示するコンポジションにはいぶし銀の貫禄すら漂う。まだ30歳を迎えたばかりだというから恐れ入る。この老成ぶりは何だろう。

【関連リンク】
http://www.hathut.com/home.html
http://www.samuelblaser.com/
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by kfushiya | 2011-11-22 12:30 | ベルリン/音楽 | Comments(0)
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↑収録曲は1.Smaragd 2.Kahki 3.Reed 4.Pigment 5.Cadmium 6.Signal 7.Ur 8.Loden
の8曲。2009年4月、ケルンのLoft録音。エンジニアはChristian Heck。


夜中に多国語を一気に連続して翻訳してからクラシックの原稿を書き、そのまま昼間は鬱屈した気分のまま長時間お勤めするという日々を送っていたのでさすがにこの一週間は体力的にきついものがあった。もう若くはないのだから。この昼どうにかしないとなあ。頭に一筋の煙をくゆらすように、このところシャンソンのアルバムばかりを聴いている。ゲンズブールやバルバラ、グレコなど。たまに挟み込むのはとあるミュージシャンに以前いただいたアーチー・シェップの"For Losers"。最高ですね、この作品。ここは日本なのだからとあんまり感情を出すのはやめよう、とはわかっていても数か月に一度擦り切れるときがあり。新たな出会いを持ったとて最終的には鼻つまみ者で終わることが多いのだから、環境を変えても同じことだな、とか同じ結果へ向けて一から布石を打ちなおすのもめんどくさいよなあ、とか苦笑しつつ時間ばかりが猛烈な勢いで過ぎてゆく。自分のキャラは今更治りようがないのだからこれでゆくしかないのだ、と妙に明るい確信へと結局は至るのだが。

さておいて、やっと届いたAchim Kaufmann(アキム・カウフマン)のトリオ作品。アキム・カウフマンといえば『Double Exposure』、というくらいこLeoから出ているクァルテット・アルバムは大好きな一枚だ。あまりにも好みのピアノなので、初めて聴いたときも以前どこかで接したことがあるかのような既聴感を覚えたほどだ。アキム・カウフマンはケルン~アムステルダム・シーンで活躍しており、ずっとアムスに住んでいるものと思っていたが、数年前よりベルリンへ居を移したらしい。ということは、『Double Exposure』のメンツのうち、Michael Mooreを除いた全員がベルリンに住んでいるということになる。楽しそうだなあ。そういう訳で、この『Gruenen』のトリオ編成も、Christian Lillinger というベルリンシーンの若手で抜きん出た才能を見せる第一級のドラマーを得て非常にヴィヴィッドかつ腰の据わった仕上がりとなっている。Lillingerが1984年生まれ、ダブルベースのRobert Landfermannは1982年生まれというから如何にも若いメンバーである。演奏は歳を感じさせない老練なものではあるが、アルバムが進むにつれて兄貴分的にKaufmannが若手2人の影に回って存分に2人を暴れさせている様子も頼もしいものがある。

アキム・カウフマンのピアノの魅力は、何と言ってもその音色である。リリカルで気品に溢れているが、近寄り難いのではなく、すっとこちらに馴染んでくる外壁のなさ。アルバムタイトルは『グリーン』だし、ジャケもどことなくファンシーだが、中身はそんな安易な予想に添うものではない。見事に鳴らし切られる88鍵。使い切られるそのソノリティ。インプロヴィぜーションでもはや常套手段となったプリペアド奏法は最小限度に抑えられ、あくまでサウンドの一部として自然に融和するように収まる。ピアノ線が鍵盤より前にしゃしゃり出ることはなく、88鍵のサウンドを豊穣に肉付けし、その魅力をヴァイヴする。ピアノの魅力が細部まで立体的に積み重なった緩急/弱強も自在な計8曲収録。単音がシフトするしたたるような連打から始まる1.Samaragd。ピアノはコードとアルペジオとなって波及力を増してゆくが、Lillingerのドラムもそれに呼応するようにドラムセットの各部を小刻みに震動させながらサウンドの太い幹を打ち立ててゆく。シンバルからハイハット、スネアと高音から下降してゆき、バスドラに至ったや否や、その音が乾き切っているので肩すかしを食う。地鳴りとして落ちるべきところが逆にドライに突き上げてくるので、それが逆に衝撃だ。水鉄砲を顔に食らった気分に近い。中盤に差し掛かってピアノと組んでじりじりとした焦燥を醸し出す、その音質はほとんど木魚。スティック、手による寸止め、ブラシ、鈴等、さまざまな触手が弾丸となって降り注ぐ。まあ、終始ほとんど鳴りっぱなし(Gunter Baby Sommerの愛弟子だけあって、即興における毒の盛り方の何たるやを心得ているが)。新鮮味とともに違和感を覚えたのが、ダブルベースの在り方だ。ラントフェルマンの弦はじきは音楽全体に大きな粘着質と弾みをもたらしていることは間違いないのだが、ドラムとピアノが強音で全開となっているときに絡んでくると、時たま煩わしく感じるのである。音が多すぎる。というか、そもそも「トリオ編成」というものはかくあるものだったのだろうが、昨今「ベースレス・スタイル」に聴き手の耳が慣らされてしまった影響なのだろうか。あまりに充実している、こいつほんとに20代かよ・・・とか思いつつ2曲目へ移行してハタと気付くのが、ピアノは打楽器であることに徹しているのだな、ということ。カウフマンのサウンドの波及は完全に縦方向だ。ツインドラム編成に近いノリなのかもしれない。ドラムとピアノのポキポキとした断続音に、唯一横のラインで滑りこんでくるのがベースで、その弧を描くかのような重音含みの侵入はなかなかにエキセントリック。サウンド全体の最低音を担う苦渋に満ちた迫力のベースライン、それにバスドラ、全鍵を駆使するピアノのトレモロが加わる攻め上げはさすが男3人のスタミナ。どんなに爆音になっても決して野卑にならぬところも素晴らしい。個人的には5. Cadmiumと6.Signalで色濃く見せた、コードの音の曳きが鋭角性を保持したまま折り重なってゆくピアノがとても好きだが、どの楽器に注目して聴くかで全く違った世界が開けてくるだろう。どこを切り取っても高密度という、瞬間にこだわり出したらエンドレスに聴き続けることになりかねないアルバム。Kaufmannのコンポーザーとしての明晰な頭脳、成熟したピアニズム、楽器を隅々まで熟知しヴィヴィッドな音色で歌わせる統率力。ジャンルによらずピアノ好きを満足させるに違いない。

現在Achim KaufmannはJuergen Friedrich(ユルゲン・フリードリヒ)率いる"Monosuite"のメンバーとしてツアー中のようだが、メンツがHayden Chisholm、John Herbert、John Hollenbeckにストリング・オーケストラ付きというからすごい。聴いてみたいものだ。
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by kfushiya | 2011-06-18 16:41 | ベルリン/音楽 | Comments(0)
いるだけで何となく可笑しい人がいる。
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↑Paul Brody(c) Dirk Haskarl

ベルリン在住のアメリカ人トランペッター・Paul Brody(ポール・ブロディ)がまさにそうだ。私の記念すべきベルリンお初ライブ体験がこの人のバンドだったことはいつか書いたが、「イカレ系」としては屈指。だが、トランペットの演奏自体はむしろオーソドックスで、結構ロマンチストな側面をものぞかせる。演奏というより、人物そのものに関する逸話が多い。ライヴの前の日に彼女2人が鉢合わせしてそれぞれ両頬をド突かれ、演奏不可能になったので代わりに弟子をステージに上げ、自分は客席の前列から指示を出していたとか何とか。真偽のほどはわからないが。

その Paul Brody率いるバンド"DetoNation Orchestra"(デトネーション・オーケストラ)のアルバム『Animal & Cowboy』は、彼がサンフランシスコに帰省中にたまたまフリーマーケットで見つけた詩集に曲を付けたというもの。彼自身によるライナーでは、「ブルース以外の北アメリカのフォーク・ミュージックは知られていないので、それを表現するのにもってこい」と述べられている。1. Animals and Cowboys、2. Love and Water、3. Food and War、4. Trains and Death、5. More Animalsの五部仕立て。それぞれがさらに何章かに分かれており、カウボーイや船乗りの人生が哀愁とユーモアとロマンと自虐たっぷりに、楽器とヴォイスにより綴られていく。バンドのメンバーが、David Moss(voice)、Tony Buck(dr, samples)、Ed Schuller(b)、Michael Rodach(g)という個性・実力ともに揃った方々なので凡そ語られる物語の入念さと壮大さは想像できようというもの(たまにMossの代わりにAlex Nowitz、Schullerの代わりにCarlos Bicaになったりする)。

そのまま聴いていても充分楽しいが、詩人・Paul Brody自身による詳しいライナーを見ながら聴き進めると理解度が深まる。彼はもともとボストン大学で本格的にポエトリーを専攻したという詩人なのである。根っからのロマンチストでストーリーテラー。一つの壮大な物語を作るための手段として、各楽器なり声なりが機能している感がある。どれか一つの楽器が目立つということは全編を通してあまりなく、楽器のソロの部分でも役者が台詞を語っているような、演劇じみた雰囲気がある。曲ごとのライナーは英語だが、各ページにドイツ語よるアフォリズム形式の文章が書き連ねてあり、これがまた複雑だが独特な回路を持つブロディの思考の一端を見たようてなかなかに興味ぶかい。例えば冒頭。

「記憶が『デジャ・ヴュ』に絡まれ始めると、音楽が生じる。記憶は穴だらけの広帯域フイルムのようなもので、良い記憶は抜け落ちる。記憶は未来的展望で見た場合の現在を過去として我々に突き出すと同時に、長い間そうであるはずと思われていたものを揺るがす。云々」

で始まり、最後が「記憶はトランペットだ」で終わる。何だかよくわからん。『記憶』はこのアルバムの重要なモチーフであり、本人も「ベルリンの暗い冬に味わうからこそこの詩集が格別となる」と言っているように、「異郷・ベルリンで郷愁とともに少々行き過ぎてしまった奇人・ブロディの、エスカレートした妄想一部始終」の表出、と受けとるのも面白い(なんだか、ドラえもん物語は全部のびたの夢だった、というあの残酷な仮定を思い出す)。ゲスト・ミュージシャンもBilly Bang(viollin)、Rudi Mahall(Cl.)、女性のテューバ奏者・Bettina Wouschkeと、ひそかに豪華だ。

別編成のクレツマー・バンド『SADAWI』も面白いが、これは生粋のニューヨーク色が濃い。DetoNationのほうは、「ベルリンのアメリカ」色である。
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by kfushiya | 2009-11-16 14:37 | ベルリン/音楽 | Comments(0)