【*2015/06】


by kfushiya
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

諸戸詩乃ピアノリサイタル@浜離宮朝日ホール

c0206731_1941993.jpg

↑銀座の街猫


向かいの寺に集うすずめのちゅんちゅん声で目が覚めたが、なぜか思い出したこともない田舎の小学校時代の記憶が蘇った。人の名前に節をつけて歌にするのがクラスで流行っていて、光一君という子の歌の歌詞が「こうなったらもう一歳~♪」とかいうもので最も執拗に復唱されていた(何でだろ?)。まだ一歳、ではなく「もう一歳」というあたりが期せずして詩的だ。そういえば絶壁の教師のあだ名がエベレストだったし、髪を中途半端に伸ばして真ん中分けにしている男の子は「前葉体」と呼ばれていた。子供というのは理由なく情け容赦ないのう。今の時代ならば「いじめ」の部類に入れられてモンスター・ペアレントが乗り込んできかねない惨状だった、我が世代の地方の公立学校。それにしても、なぜすずめのちゅんちゅん声でこんなことを思い出したのだろうか。何に誘発されるのか、記憶とは恐ろしい。『記憶』といえば、近藤等則とDJ KRUSHの名作があるが、そのKRUSHを久方ぶりに来週頭に聴けそうだ。ベルリンで7~8年前に聴いて以来なので楽しみである。

さておき、以下にまだ若いながら素晴らしい才能のピアニスト、諸戸詩乃さんのリサイタル評の一部を。会場では、諸戸さんを高く評価しておられる谷川俊太郎さんのお姿も拝見しました。


■諸戸詩乃ピアノ・リサイタル
2011年3月1日(火)@東京・浜離宮朝日ホール

《プログラム》
モーツァルト:ソナタ第12番ヘ長調K332
シューベルト:ピアノソナタ第13番イ長調op.120, D.664
<休憩>
シューベルト:4つの即興曲op.90, D.899
リスト:『巡礼の年』第3年 S.163より
第2曲「エステ荘の糸杉に寄せて~哀歌」
    第4曲「エステ荘の噴水」
*アンコール
シューベルト:楽興の時第6番


2003年よりウィーンに居を定める諸戸詩乃は弱冠18歳、この日が日本での正式なリサイタル・デビューとなる。名古屋に生まれ4歳よりピアノを始め、10歳でウィーンに渡ってからは名教師エリザベート・ドヴォラック=ヴァイスハールに師事。15歳のとき史上最年少でウィーン国立音楽大学へ飛び級入学。ピアノ教育界の世界的権威であるハンス・ライグラフや、ヤン・イラチェック・フォン・アルニンにも薫陶を受けている。ウィーンではウィーン芸術週間に招聘されるなど、順調に音楽活動を続けているという。日本においては2007年に堤俊作指揮・ロイヤルチェンバーオーケストラと共演したほか、2009年にはカメラータ・トウキョゥからデビュー・アルバムをリリース、2011年2月にもシューベルトの新譜を出したばかりである。

清廉で、泉のように湧き出る音楽性。特筆すべきは音色の美しさである。太くクリアな芯を持ち、その周囲は甘やかな丸みで包まれている。純度の高いクリスタルのような響きを放つ一方で、鋭角的になりすぎない優美さをも併せ持つ。打鍵はいかにもウィーン流らしく、かっちりと深く降ろされる。プログラム全体を通して驚くほど精確だが、それが機械的には決して響かない。空気のように周囲に漂う掴みどころのない情緒、それが音楽の本質であるならば、見事に本質そのままのピアニストであるといえるだろう。その音楽は外界との間にへだたりを全く感じさせない。あまりにも自然に風土や情景、作曲家が生きていた時代背景がゆらりと現前する。極めて高い集中力によって到達しうる珠玉の世界ではあるのだが、水のように絶えず流れている澱(よど)みのなさで聴き手を包む。

冒頭に奏されたモーツァルトのソナタ。単音の珠がころころと転がるさまが印象的な作品だが、諸戸が持つ音楽性と音色の美質を堪能するにはうってつけの選曲。単音がとりわけ美しいピアニストであるだけに、シンプルな旋律のラインが伴奏部のあわいを縫って立ち現れるとき、ぱっと灯がともされるような華やかな衝撃をもたらす。叙情的でなめらかな伴奏部にハイライトの効いた単音が織り込まれるさまは、モーツァルト特有の安定感に不足すると捉えられかねない反面、儚さや移ろいといった成熟した側面をも照らしだす。同時にその凹凸感は、作曲された当時の未完の楽器状態への想像力も掻き立てる。たとえば一音一音をフォルテでくっきりと際立たせるようなマルカート的な打鍵は、ピアノのハンマー部分を意識させる。靄(もや)のなかから立ち現れ、綿菓子のように空気に溶けてゆくような、入(い)りと抜けの良いピアノ。音色の色彩は極めて豊富なだけに、奏者の成熟とともにさらなる陰翳が加味される時が待たれる。

呼吸することがそのまま音楽であるかのような諸戸のピアニズムとシューベルトは好相性のようである。ロマン派の作曲家であるがゆえ、一層制約から自由に、のびやかになっていると見受けられた。ベーゼンドルファーの鳴りも曲を追うごとに良くなっていく。通常、ロマン派の表現というと激情をそのままぶつけるアプローチが多いなか、諸戸の演奏はそういった急激なエネルギーのほとばしりとは趣を異にする。パッセージが低音部から高音部へ移行するときの自然に気分が高揚する部分でも、ことさらにクレッシェンドされることはない。むしろパッセージの基点となる音を中心として大きく孤を描くような、息の長いフレージング。基点がしっかりと鳴らされ、そこから響きは同心円状に広がってゆく。テクニック的にも無駄のない脱力がなされているようだ。そうした呼吸や身体コンディションと順応しきったナチュラルさは、ともすれば聴き手が期待する盛り上がりからすり抜けてしまい、少々肩すかしを食ったような気分になる人はいるかもしれない(とくに即興曲D90-2など)。しかし、シューベルトの醍醐味でもある、求心的に音楽が攻めてくるのではなく、気が付いたら周囲に音楽が満ち溢れていた、という「やわらかな音の共生」の世界は見事に具現していたといえるだろう。・・・・・・


続きは次回更新jazztokyoにて。林喜代種さんの素敵な写真が入ります。
[PR]
by kfushiya | 2011-03-05 18:44 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)