【*2015/06】


by kfushiya
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Narciso Yepes 『Werke fuer Laute』 を聴きながら

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↑ナルシソ・イエペス『リュートのための作品集』(廃盤)


かのアルフレッド・コルトーは一日4時間以上は絶対練習しなかったというが、朝の練習はバッハの『平均律クラヴィーア』を全二巻通して弾くのを日課にしていたという。言うまでもなく指慣らし以上の意味がそこにはある。極力個人的な感情を排して音楽自体の構造のなかへ埋没することで、自分の手を離れたところの「音楽それ自体」が蘇生するのを客観視する、という訓練か。毎回違った顔が現れる奥深き「定型の美」の実践を、叙情の大家が行っていたところが面白い。「主観」の切り離し訓練が、自己の表現における途轍もないロマンティシズム放出の源泉となっている事実。

クラシックの世界に限らず、構築力や構成力に秀でた芸術家はほぼ例外なく「バッハ弾き」である。「繰り返し」をして倦むことの知らぬグルーヴに転化せしめる優れたミニマリズムの源泉もここにあるような。音楽自体の自律した力と運動性。演奏者が中途半端に「バッハとはこういうもんだ」と先入観に満ちた思い込みをそこに被せようとしても、玉砕させられるバネの弾き(はじき)みたいなもんか。作品自体の力に撥ね退けられる。ひたすら無我になって黙々と取り組んだ場合にのみ達せられる、作品と演奏者の崇高なる合一は、依然稀なのかもしれない。

ナルシソ・イエペス(Narciso Yepes)。「アランフェス協奏曲」、『禁じられた遊び』などとほぼ同義としてあまりにも有名なため、さすがこのクラスの著名人になるとWikipediaでもある程度の情報が網羅されている。生い立ちやホセ・ラミレスⅢとの10弦ギターの創案などはさておいて、このウィキで面白いのは批評欄である。ポジティヴな評以上にネガティヴな評が多いからだ。どうも評価の分かれ目は、その細部にまで緻密に神経の行き届いた高精度テクニックを「繊細で無駄がなくスマート」と受け取るか「機械的無味乾燥で冷徹」と受け取るかにあるらしい。「その素晴らしいテクニックにも関わらず、音楽から程遠いところにある」とか「単調で気取っていてこれ見よがしに感傷的でリュートの楽しさを完全に損ねている」とか、極めつけはPeter Paeffgenというドイツ人のおっさん。「(リュートという)楽器選択だけを見れば、イエペスをギュスタフ・レオンハルトやニコラウス・アーノンクールと同列の『古楽のパイオニア』と称せようが、それは実際にリュートという古楽器でバッハを録音したからだ。(中略)それでも評判がいいのは、イエペスがすでにギタリストとして名声を得ているのと、ドイッチェ・グラモフォンの録音技術が高いからだ。あいにくその録音技術の高さが、いくら歴史的な楽器を用いてもその音楽から『古楽』を引き出せないということを証明してしまっているが」とまで言い切っている。こういうのを読んでいると、結局人はイエペスに「アランフェス協奏曲」のイメージを一生背負わせようとしていたのか、とか、スペイン人=激情のジプシー的音楽、という短絡思考で絡めとろうとしていたのか、とか、前例にない奴はどこの世界でも叩かれるのか、とか邪推してしまう(渥美清や高橋元太郎が「寅さん」と「うっかり八兵衛」以外の役が出来なくなるのに近いか?)。ひどい話だが、一握りのスターだけが持ちえる苦悩かもしれない・・・。

さておいて、このJ.S. バッハ『リュートのための作品集』は秀逸だった。弦の一本一本が生命を得、謳っている。イエペスという演奏者の人となりの反映は最小限に留められている(ような気がする)。冒頭でも述べたが、バッハ演奏の極意はいかに黒子的に自己を埋没させて音楽の構造自体を操れるか(骨組みだけに謳わせることができるか)である。ただの感情の発露は精神性が低い人間にも可能だが、バッハに求められるはひたすら地味で精神的な作業だ。率先して苦行を担うようなマゾ的ストイシズムを乗り越えた先にあるものが、そのバッハ演奏の美の質を決定する。何だか坊さんの世界みたくなってきたが、精進料理しか食っていないはずの坊さんたちの顔があるときからふっくらして来る現象、と似た何かを演奏者に強いるのではないだろうか。それはある瞬間にふっと匂いたつ類の極めて「気配」的なものであるので、到達の実感を捉えることは難しく。その現象を想定してかかろうものならとんだしっぺ返しを食らう(巷に多い、お洒落な煩悩バッハ)。一見無味乾燥なメカニズムに意味を見出せるか、一音一音を規定のピッチやテンポの範囲内で開放できるか、意識を細部に拡散させながら統合できるか、感情を覚醒の段階まで持っていけるか、などなど課題を無数に孕むのだ。イエペスの発する音には邪念がない、のに円熟している。確かにグレン・グールドのバッハなどに比べれば灰汁は薄いだろうが、自身を無色化することに成功した男の境地が確かに息づいている(「アランフェスの男」はもうここにはいない)。

非常にニュートラルな地点を示す音楽、にして、何かの「基準」について思いを巡らすときに自然と体に染み入る。
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by kfushiya | 2010-09-15 09:22 | 音楽と日々雑感 | Comments(0)